電車の中でいらつく男性に遭遇したり、チッと言われたり、こづかれたりするような経験などはいくらでもあるけれど、怒りを剥き出しに攻撃的に振る舞う若い女性には免疫がなく、激しく動揺してしまった。ただわかるのは、他人に躊躇なくいら立ちをぶつけられるのは、おそらく彼女たちが日常的に「やられている」ことであること。そして恐らく彼女たちは、自分よりいら立つ者、自分より強そうな者、自分より怖い男には「やらない」だろうということ。
弱者をあっさり斬り捨てる強烈な自己責任社会では、弱い者たちはお互いに手をつなぐ以前に、自分より弱そうな者を軽蔑する。“公共空間の流れ”についていけない鈍い中年女を躊躇なく叱りつけるといった振る舞いが反射神経的に出るくらいに、今の社会が殺伐としているということかもしれない。そしてその中では、差別意識も剥き出しになるだろう。この話を友人にすると、「あるある」とすごく共感してくれるのが50代以上の女性であり、男性には「そんなことがあるんですか」と驚かれるのも象徴的だ。公共の空間にも、性差別と、エイジズムが、まるでシステムのように根付いているのだ。
ちなみに、都心でそんな思いをした数日後に、地方の日帰り温泉に行った。町民が日常的に使う温泉場は賑わっていて、洗い場は全て埋まっていた。そこで洗面道具一式が置いてあった場所に仕方なく座ったとたん、背後から「そこ、私の場所、どいて」と高齢の女性に仁王立ちで言われた。裸の長老のすごい圧に、私はあっさり「はい」とどいたのだが、なんとなく愉快な気持ちになる自分もいた。もしかしたら、その長老が私の目をまっすぐ見たからかもしれない。駅の改札や車内で私にいら立った女性たちは、私の顔を全く見なかった。他人に対峙するのではなく、ただ自分のいら立ちをぶつけてきた。だからよけいに私は動揺したのだと気が付いた。仁王立ちした裸のババア(敬愛を込めて敢えて)に「そこ私の場所」と言われるほうが、よほど清々しいのは、私が少なくとも「人」として存在しているからかもしれない。
電車の中で隣に座る人。カフェで近くに座る人。街ですれ違う人。そんな他人の心の内が、突然剥き出しになったときに見える何か……。それは日常的にどこにでも転がっているような話でもある。でももしかしたらそれは、今を映す世相でもある。不安に襲われるような社会。激しい競争に誰もが疲弊しているのは事実だ。政治がよくならない、経済がよくならない、未来が見えにくい。そういう社会で私たちは自分たちが考える以上にストレスをため込んでいるのかもしれない。いら立ち、不安を抱える女たちの横顔が気になる。