そうしたキャリアの中で久米は、「テレビの機能を最大限に生かせる番組をつくりたい」と、テレビの本質とは何かを考えるようになっていった。その答えこそ、「ニュース」だった。日本では報道番組がどうあるべきかについてまともに考えられていないと感じた久米は、だからこそ逆に「鉱脈」だと考え、まったく新しいニュース番組を立ち上げる決断をするのだ。「外観のイメージ、雰囲気が決定的に重要な要素となる」とセットから衣装に至るまでこだわった。もちろん、原稿も変えた。報道記者が書くニュース原稿は昔ながらの名文調、美文調ばかりだった。だから久米は記者たちに「普段話す言葉で書いてほしい」と繰り返し要望した。またワンセンテンスが長いのも常だった。それでは分かりにくい。久米はどんどん文章を短く切っていった。「中学生にもわかる」「テレビ的な」「楽しめるニュース」をコンセプトに、いかに「わかりやすく」するか。模型などを使って、一目でわかるように工夫していったのだ。

 当然、最初からうまくはいかない。「報道局の記者・デスクたちは、制作会社の人間とは口を利いたこともない、いわばエリート集団だ。対するOTOのディレクターや放送作家たちは、報道のことなどまったく知らない雑草軍団だ」。この報道=スーツ組と久米の事務所で制作会社のOTOからやってきたバラエティ畑のスタッフ=Tシャツ・短パン組の争いはシリアスだけど、描写がマンガチックで面白い。

 開始当初は1桁で推移した視聴率だが、チャレンジャー号爆発事故やフィリピン2月革命を機に好転。やがて20パーセントを超え、他局にそれを追随する番組を乱立させるきっかけになった。わかりやすくて面白い『ニュースステーション』はニュース番組を根本から変えていったのだ。

 一方で久米は、「テレビで政治を見ていると、僕たちは何かわかったような気になってしまう。なぜわかったような気になるのか。テレビに映っているものをすべて見たからだ。ここにはテレビが本質的に持つ危険性、あるいは弱点があるように思う」と警鐘も鳴らしている。久米のやってきたことを表層的になぞり、ニュースをわかりやすく伝えようとすると、単純化に向かいがちだ。しかし、事実はそう単純なものではない。テレビの危険性を顧みず、「わかりやすさ」に耽溺してしまうと二元論や画一化の罠にハマる。いま、そんなニュース番組が少なくない。

 いかに細部にこだわり、この世界は複雑だということをわかりやすくテレビで見せるか。本書にはその模索が刻まれている。テレビの本質を考え抜いた上で、一貫して「反権力」を貫き、久米は常に他とは違う見方を提示していた。本書を読み終えた今、僕は思い直した。

 いま、テレビに「久米宏」が必要だ。

暮らしとモノ班 for promotion
2024年の『このミス』大賞作品は?あの映像化人気シリーズも受賞作品って知ってた?