立浪は94年、巨人とシーズン最終戦で優勝を争った「10・8決戦」の一塁ヘッドスライディングで左肩を脱臼。コンバートされた二塁で翌95年から3年連続ゴールデングラブ賞を受賞した。そして2003年には三塁でゴールデングラブ賞を受賞。50年を超えるゴールデングラブ賞の歴史において、3ポジションで同賞を受賞したのは立浪だけだ。
【2】鍛えられたPL学園出身者。宮本が長嶋の記録を破る三塁守備
立浪がPL学園高3年春夏の甲子園を制覇したとき、唯一2年生でメンバー入りしていたのがヤクルトの宮本慎也だった。決勝戦のスタメンは遊撃・立浪、三塁・宮本の布陣。
宮本は、プロ入り時、野村克也監督に言われた。「お前は専守防衛の自衛隊だ。打順8番、遊撃のレギュラーをくれてやる。その代わり、バントで送れ、しっかり守れ」。6度の遊撃ゴールデングラブ賞。しかし、中日の井端弘和に取って代わられる。
06年と07年にプレーイングマネジャーを務めた古田敦也は言った。「(36歳)宮本の三塁コンバート? 本人には言いづらい」。捕手で10度のゴールデングラブ賞、「センターライン」の重要さと名手のプライドを知る古田ならではの反応だった。プレーイングマネジャーの古田は、宮本よりわずか5歳だけ年上だった。
だが、08年に高田繁監督が就任する。高田は「外野→三塁」のコンバートに成功した唯一の選手だ(1975年ゴールデングラブ賞。「外野→一塁」での受賞は日本ハム・稲葉篤紀がいる)。高田監督いわく「宮本の選手寿命を延ばすために必要だ」。高田監督は、当時38歳を迎える宮本より25歳上の63歳。コンバートの効用を宮本に説明した。