史上初の「遊撃手2000試合出場」、セ・リーグ初の「遊撃手首位打者」、遊撃手史上2位の40本塁打(1位は中日・宇野勝の41本)。現役選手でありながら「歴代遊撃手ナンバーワン」の誉れ高い巨人の坂本勇人が、9月7日に初めて三塁でスタメン出場した。三塁コンバートは成功するのか? 過去の例を挙げてみる。
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常識的に考えれば、内野で一番細かな動きが要求される「遊撃」から、速くて強い打球を止めるのが主体の「三塁」へのコンバートは、力が衰えた選手への対策だと考えられる。しかし、そればかりではない。ゴールデングラブ賞(旧ダイヤモンドグラブ賞)が制定された1972年以降を考察してみる。
【1】石毛が5度遊撃+5度三塁。立浪は三塁を含む3ポジション
最初に「遊撃→三塁」へのコンバートが大成功したのは、87年の西武の石毛宏典だった。伝説の名遊撃手・広岡達朗の「正面で捕る」「投げるために捕る」遊撃理論を伝授された石毛は、86年まで5度の遊撃ゴールデングラブ賞を受賞した。しかし、石毛は87年、送球に若干難のあった三塁・秋山幸二のセンターへのコンバートと、自身のヒザの故障もあって、三塁にコンバートされた。以降、石毛は5度の三塁ゴールデングラブ賞を受賞している。センター・秋山は外野で11度のゴールデングラブ賞を受賞(1位は阪急=現オリックス・福本豊の外野で12度)。平野謙と秋山のコンビは水も漏らさぬ鉄壁右中間になった。大成功のコンバートだった。
石毛がコンバートされた翌88年、セ・リーグでは中日の立浪和義が初の「高卒新人ゴールデングラブ賞」を遊撃で受賞する。日本シリーズは立浪の中日と石毛の西武の戦いだった(西武が日本一に)。その88年、一塁で初のゴールデングラブ賞を受賞したのは、PL学園高で立浪の2年先輩の西武・清原和博だった。清原は打撃優先だと思われがちだが、一塁守備は傑出しており、パ・リーグの一塁で最多タイの5度のゴールデングラブ賞である。