しかし5月20日、残酷な知らせが届く。それも……。
「学校にもグラウンドにも行けなくて、授業は、ほぼなくて、集まって練習しちゃダメ、という状況でしたから、テレビで見たんです。信じられなかった。誰のせいでもなかったので、ぶつけることのできない思いというか……やる気がなくなりました。当時の僕たちの人生は野球が全てで、夏の大会が集大成。そんな人生を否定されたというか……。メンバーたちも、何のために練習してきたんだろ? 俺ら、何のために生きてきたの? 全部ムダだったな……そんな感じでした」
翌21日の朝、9時52分に監督からメールが届き、「都大会が行われることになった。気持ちを聞かせてほしい」と書いてあった。大武は次の日、監督に「(都大会に出場)できる気が今はしません」と返信した。
「いつもだったら監督さんに、こんなこと、言わないですけど、もう本当に、どうでもよくなっちゃっていたんです。その先に甲子園がないのに、何のためにやるの?と、本気で思ってました」
その次の日からチームが集まったが、モチベーションが上がらない人間がいて、チームは二つに分かれていた。
「主将が毎日、『最後までやろうぜ』と言ってきて、少しずつ、やろうか、という気持ちになっていったんですけど、本気で取り組めていたかというと……。それを今はメッチャ後悔しています」
最後の東東京大会で大武の背番号は16。1回戦は代打。2回戦は代走から守備。3回戦は代打。
「《俺を出すんだ?》みたいな気持ちでした。ヒットはなく、何も結果は出していません」
チームはベスト16で敗退した。以来、大武は大学2年(昨年)の6月ごろまでグラブもバットも1回も触らず、野球を一回も見なかったという。