入社当時は、変わり者の集まりだった。いまは優等生が会社訪問にくるが、東大生の「行きたい会社ナンバー1」となったら、もう危ない、と思う(写真:本人提供)

 鎌倉で仕事をしたのは5年ほど。それほど長くない間に、此本臣吾さんがビジネスパーソン人生の『源流』と思う大きな財産を得た。仕事の面白さを教えてくれ、プロフェッショナルとしての仕事の進め方をみせてくれた先輩や上司との出会いだ。鎌倉にきて、その「財産」を、再確認した。

仕事は頑張らず楽しめばいいと身についた日々

 小学校4年生のとき、東京駅から大分県の別府駅まで、特急列車に1人で乗っていった。以来、大学院を修了するまで、鉄道での1人旅を重ねる。人と交わるのが得意でなく、入社後も職場の濃厚な人間関係の外にいた。でも、仕事の面白さを知って「仕事は頑張るのではなく、楽しむものだ」と思うようになっていくと、次第にみんなで食事へ出たり、花火を楽しんだりするようになる。

 当時はインターネットはなかったから、何か調べるのにすごく手間暇がかかり、それだけで「価値」を生んでいた。当然、1人ではできず、2、3人ずつチームを組む。2年目にはチームリーダーにもなり、後輩の指導も始めた。

 3年目から2年間、リーダーとして手がけた静岡県西部の住宅メーカーからの営業強化策の仕事は、会心の出来だった。住宅展示場から建築契約を結ぶまでの過程を10段階に分け、どの段階でどれだけの客が商談から離れているかを分析した。そのうえで、離れる数が多いところに、実績のある営業マンの手法を採り入れる。見事に成果が出て、依頼企業から大いに喜ばれた。

 鎌倉へくると、そんなことも思い出す。建物や風景も懐かしかったが、それよりも、鍛えてもらった上司や先輩とのやり取りが浮かぶ。その人たちに、リサーチからコンサルティングまでの基礎をつくってもらった。自分は運がよかったなと、あらためて感じた。

 その体験から、いま社員たちに、こう説いている。

「会社に入って5年くらいの間に誰と仕事をしたかで、その人の会社人生が変わる。だから、新入社員が入って下にきたら、いい仕事ぶりをみせてあげないといけない。その人たちの将来は、皆さんにかかっているところがあります」

 野村証券の子会社時代から、「キープヤング」という言葉がある。若い人に、多少は挑戦的であっても任せれば、何とか自分で乗り越えてくる。その自信は、大勢のなかで教えられてできたものとは全く違い、次の仕事への意欲につながる。そんな趣旨と理解し、自分はその機会に恵まれてきた、と頷く。

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