■日陰から表舞台に
長く日陰にいたプリゴジン氏とワグネルが表舞台に躍り出たきっかけは、ロシア軍のウクライナでの苦戦だった。
昨年9月、ロシア軍が兵士の損失を強制的な動員で補わなければならない事態に追い詰められたとき、プリゴジン氏は、刑務所を回って囚人をワグネルの戦闘員として迎え入れた。自身がワグネルの創設者だと初めて認めたのもこのころのことだ。
その後のウクライナ東部の戦闘で、ワグネルは軍以上に有能だという印象を国内に広めることに成功した。
5月20日にバフムートの攻略に成功したと発表した際には、プーチン大統領自ら、ワグネルの功績をたたえるメッセージを発表した。
ただ、この時すでに、プリゴジン氏に屈辱的な言葉を浴びせ続けられてきた正規軍と、ワグネルの関係は修復不能な状態にまで悪化していた。
6月10日、ショイグ国防相はワグネルの戦闘員を直接軍の配下に再編成する方針を打ち出した。これは、実質的にワグネルを解体して、軍の指揮下に置くことを意味する。
プーチン氏も13日にこれを追認する考えを表明した。
追い詰められたプリゴジン氏が、ワグネルの存続と、ショイグ国防相とゲラシモフ参謀総長の更迭をプーチン氏に認めさせようとして起こしたのが、今回の反乱だった。
プーチン氏に拒絶されて兵を引いた後も、プリゴジン氏はあくまで正義を求めた行動だったと強弁し続けており、反省の言葉は口にしていない。
一方プーチン氏はプリゴジン氏の名前は口にせず、騒動が収まるのを待つ姿勢だ。
2000年に大統領に就任する直前、プーチン氏はこんな言葉を語っていた。
「民主主義とは、法の独裁であって、法を守るべき者の独裁ではない」
それから20年あまり。ロシアが「法の独裁」どころか、すっかり「プーチンの独裁」になってしまった実態をプリゴジンの乱が浮き彫りにした。(朝日新聞論説委員・駒木明義)
※AERA 2023年7月17日号より抜粋