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 ぼくがまだ高校生の頃、大阪の町外れのしょぼいジャズ喫茶のカウンターの隅に座って面倒くさい顔をしてジャズを聴いてた中山康樹に初めて出会った。ナカヤマは、ガリ版刷り(知ってるひとは少ないと思うが)のジャズ愛好家同人誌を、勝手に作って勝手に配ってるようなジャズアホな奴だと周囲から認知されていた。

 写真学校に入るため一足先に上京したぼくから、数年遅れてスイングジャーナル社に採用されたナカヤマが東京に来て、さっそく連絡をくれたのが1975年。

「ウチヤマ、ジャズ撮ってめぇへんか?」

 華やかなファッション写真の世界を目指していたぼくを、深くて暗いジャズの世界に引きずり込んだのはナカヤマがくれた大阪弁のひとことだった。……そしてこの一言がぼくの人生を変えた。

 以来、大阪弁でやり合える同郷旧知のよしみでナカヤマは、コンサートやインタビューや、各地で行われたジャズ・フェスに、ニューヨークやパリの取材にぼくを連行して「ジャズを撮れ!」、ジャズの帝王マイルス・デイビスが6年間の沈黙のあと復活した1981年以降は「マイルスを撮れ!」とぼくに命令して(1コ年下のくせに偉そうに)ことごとくコキ使ってくれた。

 こうしてぼくはナカヤマのお陰で、ジャズ・フォトグラファーだと胸を張って言えるようになった。マイルスに一番近づいたカメラマンと言われるようになった。

 ナカヤマが大出版社の編集長になっても、同郷旧知で同年代のぼくらは時に大阪弁でやりあうこともあった、照れくさいことを面と向かって言うことはなかったけれど、何かの弾みで「ありがとぉ(感謝してる)」と言った時……「それはウチヤマがええ写真撮ったからや」……と、ぼそっと言ってくれたことが嬉しかった。

 ナカヤマの訃報を知らされた時、故人の固い決意と遺族の希望で、しばらくは公にしないで欲しいと奥様から言われた。どうしても気持ちが治まらんから最後の顔を拝ましてと頼むと、「誰にも言わんといてや、絶対ひとりで来てや」と懇願された。

 ぼくが撮ったナカヤマの笑顔の写真を、白い額縁に入れて焼香台に供えた通夜の夜。冷たいみぞれ混じりの雨の葬儀場にマイルスのトランペットの音が静かに流れて、一層寂しさを誘っていた。

 先に召されたミュージシャン達の歌やプレイを天国で楽しんだらええんちゃう? もぉ辛口の批評はせんでもええと思うぞ……「ナカヤマありがとぉ(感謝してる)」、冥福を祈ります……。

(内山繁/フォトグラファー)