哲学者 内田樹
哲学者 内田樹
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 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。

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 宗教学者で浄土真宗の僧侶でもある釈徹宗先生と宗教について2年にわたって対談をした。それがもうすぐ本になる。釈先生とは20年前に知り合ってから会えばだいたい宗教か芸能の話をしてきた。共著はすべて宗教を論じたものである。

 私は宗教者でも宗教学者でもないけれど、宗教の実修者ではあると思う。毎朝起きると道場で拍子木を打ちながら祝詞を上げ、般若心経と不動明王の真言を唱え、九字を切る。禊祓(みそぎはら)いや滝行もする。長くミッションスクールの教師をしていたが、そのときは礼拝に出て、賛美歌を歌い、聖句を素材に「奨励」という講話もした。エマニュエル・レヴィナスを師と仰いで、その著作を翻訳し、論文を書いてきたが、レヴィナスはユダヤ一神教信仰を核にしてその哲学を仕上げた人である。

 こうやってわが半生を振り返ってみると、たしかに強く宗教的なバイアスがかかった生き方をしてきたことがわかる。その際立った特徴は「習合的」ということのように思われる。宗教性というものを複数の視点から立体視しようとしているのかもしれないし、ただ気まぐれなだけなのかもしれない。しかし、このタイプの習合性は日本宗教の「くせ」のようなものだと釈先生に教えて頂いた。

 江戸時代の独創的な学者だった富永仲基は儒仏神の三教を深く考究した末に、「誠の道」を説くに至った。三教いずれも尽きるところは「善を行う」というところに帰するのであるから、どれかを選んで、他を貶める必要はない。今の世に生きている人間は、そのなすべきことをなし、おのれの生業に励み、心を素直にし、品行をよくし、言葉を慎み、作法を守り、家族をたいせつにすればよろしい。いささか脱力するような凡庸な結論だが、私はこの常識に与する。

 仲基は「今の世」を重く見たが、それはただの現状肯定や現世利益主義とは違う。仲基は「この世ならざるもの」について思量し抜いた果てに、人間は人間の世界の限界を超えては生きられないということを骨身にしみて悟ったのである。

 学殖において私は仲基に遠く及ばないけれども、「誠の道」の教えは古希を超えた私の実感と深くなじむ。

内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数

AERA 2023年6月19日号