哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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日本維新の会の梅村みずほ参院議員が入管難民法改正案を審議する参院本会議で日本維新の会を代表して質問し、支援者の一言がウィシュマ・サンダマリさんに「病気になれば仮釈放してもらえる」という期待を抱かせ、「詐病の可能性を指摘される状況へつながったおそれも否定できない」と主張して物議を醸した。
発言の根拠を問われた議員は参院法務委でも「事実はないが可能性は否定できない」「ハンストで死んだのかもしれない」などと答えて、遺族や支援者たちから激しい抗議を受けた。
本会議では梅村議員に拍手を送っていた日本維新の会も手のひらを返して議員の法務委員会委員職からの更迭を決めた。
日本の入管は世界的に見ても異常なほどに人権侵害事例が多い。2007年以降に病死、自殺での死者17人。この数字について国連人権委員会は「収容期限に上限が定められていないこと」「必要な医療が受けられていないこと」を理由に挙げている。それだけ問題の多い入管制度についての法案を審議している国会の場で、それもきわめて非人道的な状況でのこの死亡事例について、あたかも制度そのものより収容者と支援者の側に責任を押し付けるかのような発言をなしたことについて、梅村議員に対して国会議員の資格があるのかという批判が加えられるのは当然のことだと思う。
人権についての国際感覚の欠如もさることながら、弱者に対する「惻隠の心」の欠如が私には気になった。「惻隠の心」は『孟子』にある言葉である。子どもが井戸に落ちそうになっているのを見たら、誰でも手を差し伸べる。助けたら子どもの親から感謝されるだろうとか、見捨てたら同胞から「非人情なやつだ」と非難されるかもしれないとかいう計算抜きに、とっさに手が出る。それが「仁の端」であり、人間性の始点である。子どもが井戸に落ちかけている時に「マニュアルが、法的整合性が、市民感情が……」などと言っていたら子どもは死ぬ。人道的なふるまいというのはあれこれ思量をなした後に発動するものではない。気がついたら人として正しくふるまっていたというものである。その基本をもう一度日本人の常識に戻してほしい。
内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数
※AERA 2023年6月5日号