哲学者 内田樹
哲学者 内田樹
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 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。

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 年に1度社会人向け講座を担当している。もう教える仕事からはリタイアしたつもりだったが、時々「断れない筋」からの依頼がある。この社会人向け講座もその一つ。映画を3本選んで、それぞれについて思いついたことを話すという気楽な仕事である。今年で3年目になる。1年目は「戦争の表象」、2年目は「アメリカの分断」、今年は「戦後日本が失ったもの」をテーマに選んだ。選んだのは小津安二郎「麥秋」、成瀬巳喜男「乱れる」、今井正「青い山脈」。「失ったもの」はそれぞれ「家族」「青年」「民主主義」である。

「喪失」という主題には世界性がある。「私たちはこんなすばらしいものを所有している」とうれしげに誇示しても、グローバルな共感は得られない。だが、「私たちはたいせつなものを失った」という悲しみには国境を超えた普遍性がある。もともとそれを所有したことがない人でも「それを永遠に失った人」の喪失感には共感できるのだ。不思議な話だけれど。

 先日観た「麥秋」は1951年の作品で、伝統的な家父長制家族が娘(原節子)の結婚話をきっかけに瓦解するという物語である。

 家父長制は敗戦後にその法的基礎を失ったが、しばらくは惰性で続いていた。家族の誰からも敬意を示されない非力な家長(笠智衆)が、自分に残された最後の権限だと思っていた「家族の結婚相手を決める権利」を妹に拒否された時に家父長制が名実ともに終わったことを思い知る。そして、憑き物が落ちたように人々は優しい顔になって、静かに家族は四散する。

 でも、これはただ「家父長制家族は終わった」と告げるだけの物語ではない。小津は家父長制家族に代わるものを映画の中で予示することを忘れなかった。「シスターフッド」である。家族の一員でありながら、家族に埋没することを拒否し、心ひそかに自立をめざす女たち(原節子、三宅邦子、淡島千景)に小津は日本の家族の未来を見た。それは映画の中の男たちがすがりつく「傷口を癒やし合うブラザーフッド」に比べてはるかに健康である。フェミニズムに先立つこと幾星霜。小津の炯眼(けいがん)という他ない。

内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数

AERA 2023年5月22日号