『ALL THINGS MUST PASS』GEORGE HARRISON
『ALL THINGS MUST PASS』GEORGE HARRISON

 1970年春、エリック・クラプトンはアメリカからやって来たボビー・ホイットロックとともに、ロンドン郊外の館ハートウッド・エッジでジャムを重ねていた。曲もいくつか自然発生的に仕上がっていく。それはいずれも、親友の妻パティ・ハリスンへの強い想いが通奏低音のように流れるものだった。

 しばらくすると、ジョー・コッカーの『マッド・ドッグス&イングリッシュメン』ツアーを終えたカール・レイドルとジム・ゴードンも合流し、連日連夜のジャム・セッションはさらに本格的なものとなっていく。クラプトンも強い手応えを感じたようだ。自叙伝では「レイドル/ゴードンは自分にとって最高のリズム・セクションであり、今もそう思っている」といった意味のことが書かれている。ついに理想なバンドを組むことができたと、そう思ったに違いない。

 その動きを、何度かディレイニー&ボニーのライヴに加わったこともあるジョージ・ハリスンが知り、ちょうどスタートしたばかりだった初ソロ作『オール・シングズ・マスト・パス』のレコーディングに彼らを招いた。ビートルズ時代、とりわけ後期に感じていた創作面での不満を一気に吐き出したこのアルバムを彼と共同プロデュースしたのは、あのフィル・スペクター。細かいクレジットは明かされていないが、スペクターのトレードマークだった、いわゆる「ウォール・オブ・サウンド」をしっかりと支える形で、4人は半分以上の曲に参加したらしい。

 このときクラプトンは、スペクターが彼らのシングルをプロデュースすることを参加の条件として提示。音楽性があっているとは思えないが、バンド名も決まらないまま、ともかく6月上旬、アビィロード・スタジオでクラプトン/ホイットロック作の2曲《テル・ザ・トゥルース》、《ロール・イット・オーヴァー》のレコーディングを行なった(このヴァージョンは、『レイラ』のボックス・セットなどで聴くことができる)。いよいよ新バンドが本格的に動きはじめたのだ。

 録音から数日後ということになる6月14日、4人にデイヴ・メイスンも加わったバンドがロンドンのライシアム・ボールルームで開催されたチャリティ・イベントに参加している。デレク&ザ・ドミノスという名前は、そのステージに上がる直前、言葉遊びのような形で生まれたものだという。それは、匿名性を重視し、馬鹿騒ぎを回避したいと考えていたクラプトンにとっては、まさに理想的な名前だった。[次回10/22(水)更新予定]

※『オール・シングズ・マスト・パス』は、日本では『オール・シングス・マスト・パス』の表記が一般的ですが、ここでは著者が関係者から直接聞いた発音をタイトルとして表記させていただきます。

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大友博

大友博

大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。dot.内の「Music Street」で現在「ディラン名盤20選」を連載中

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