新月とわたしの出会いは、わたしが10代だったころまでさかのぼる。
1976年、一浪して大学に入り、わたしはクラッシク・ギターのサークルに入部した。大会に出て賞を競うほどレベルの高いサークルではなかったが、数十人の部員は、その活動に真剣に取り組んでいた。夏の合宿では、わたしもバッハの《主よ人の望みの喜びよ》を拙いながらも演奏し、このままここで4年間を過ごすのだろうかと考えていた。
そんななか、秋の文化祭である看板を見つけた。
当時はまだ学生運動のなごりが残っていて、休講になったりしていた時代だった。また、大学のキャンパスには、独特の文字で世界を変えるためのアジテーションが書かれ、その前でヘルメットをかぶって手拭いで顔を隠した学生たちが、ガリ版刷りのチラシを配っていた。
そんななか、わたしが発見したのは、1枚の芝居の看板だった。
それは、わたしから見ても怪しげな看板であった。芝居のタイトルは、「劇団インカ帝国」の『牛若丸』。
京の五条大橋の欄干に立つ、薄衣をまとった牛若丸が描かれていた。劇団名もすごいし、なんかこわいなと思いながらも、面白そうなので観に行くことにした。いくら怖いといっても、文化祭でやるのだから危険ということはないだろう、と、そんな気持ちだった。
公演当日、前売りなどというものも買わず、会場に行った。大講堂だった。
開場時間の少し前に会場に行くと、その広い会場には誰もいない。間違えたかなと思い入口まで戻ると、確かに看板は置いてある。もう一度中に入ってみると、
「芝居観に来たの?」と尋ねられた。そうだと答えると、「中よ」と言われた。その人が指さす方を見ると、ステージの前の緞帳のかげから、手招きする人がいる。
呼ばれた方に行くと、「会場は、こっち」と言われ、案内されたのは、その緞帳の中、講堂のステージだった。ステージの半分が舞台であり、残りの半分が客席で、客席のほうには座布団が並べられていた。そして、その間に空缶が置いてある。灰皿である。煙草を吸いながら観られるのだと思った。
わたしは最初の客だった。舞台そでから覗く人がいて、「お客来たね」などと話すのが聞こえる。「顔出しちゃだめよ」という声もする。顔は濃い舞台化粧をしていて、異形のもののようだ。
わたし1人なのだろうかと思っているうちに、何人かが入ってきた。満席ではないまでも、バラバラと座布団が埋まってきた。
その芝居はわたしを感動させた。それまで観た演劇は、学校の授業の一環で見に行ったり、友人が出るというのでチケットを買って見に行ったギリシャ悲劇くらいのものだった。それらがつまらなかったわけではなかったが、わたしの人生のなにかを変えるほどのことはなかった。しかし、この芝居はわたしの何かを変えてしまった。講堂のステージの半分の舞台で繰り広げられたその芝居は、それまでわたしが見てきた世界とは、別のものだった。
家に帰ると、その日観た芝居の内容と感想を、ノートに数ページにわたって書いた。
その年の冬、正月が明けると、従妹から電話があった。新年会をやるから来いとのことだった。
それは年上の従妹が、東京で独り暮らしをしているわたしにたいして、知り合いが1人でも多いほうがよいだろうとの配慮からの誘いだった。初めての誘いでもあり、その気持ちがありがたかったので、出かけていった。
そこで、わたしより3才年上の従妹の中学の同級生というWさんを紹介された。従妹は、大学の卒業と同時に宇都宮の実家に戻っていたが、そのWさんは東京に残って、「シティー・ロード」という情報誌で仕事をしているとのことだった。
自己紹介をすると、その大学に通っているのだったら、「劇団インカ帝国」という劇団を知らないか? とわたしに尋ねた。
なんと、それは、秋に観た『牛若丸』を上演していた劇団の名だった。
「知ってますよ、秋の文化祭で、『牛若丸』観ました」
と興奮して言うと、
「ぼくは、その芝居に出ていたんだよ」
とWさんは言った。
目の前にいるまじめそうなWさんが、まさかあの異形の輩の1人とは、にわかには信じられなかったが、その『牛若丸』を観て感動したといっているわたしのような若造が目の前にいることも、Wさんにとっても不思議な体験だったに違いない。
わたしはその頃、『あやとり』という自費出版の文芸誌を友人と作っていて、そこに小説を書いていた。印刷をする金もなく、知り合いを頼って、設計の図面などに使われていた青焼きという複写機で作成していた。
わたしは、その小説を劇団インカ帝国の作演出の伊野万太に読んでほしいと思った。
Wさんは、「万ちゃんも小説書いてるみたいだし、一度、会ってみたら」と言ってくれた。
東京に戻ると、わたしはすぐに劇団インカ帝国の練習場に向かった。
それは、わたしの大学の教室だった。
まずは部室に行った。クラシック・ギターの部室はドアのついた部屋だったが、劇団インカ帝国の部室は、材木やパネルで仕切った一角だった。
「せっかくだから、小熊君も練習していけば」と言われた。
「いや、今日は小説を見てもらおうと思ってきたので」と逃げると、
「そういわないでさ、おい、誰か、練習着貸してやれよ」
そして、いつのまにか、わたしは10人くらいのメンバーと柔軟体操をし、発声練習をし、早口言葉をいい。エチュードと称して、小芝居の練習などをした。
3時間ほどして練習が終了した後、
「これから飲みに行くけど、来るよね」と言われた。みんなで巣鴨の焼き鳥屋に行った。カウンターに座っている人たちの後ろをやっとすり抜け、急な階段を上って、かなり年季の入った畳の部屋に入った。
そこでの時間は楽しかった。文学の話や映画の話、音楽の話をした。こんなことを話し合える人たちと出会えたことがうれしかった。
1人の女性が、「芥川龍之介の文章に、『やすちゃんが、青いうんこをしました』というのがあって、怖いのよね」といった。
わたしもその文章を読んだ記憶があったが、そこから恐怖を読み取ることはできていなかった。つまり、青いうんこをするということは、命にかかわるかもしれないという表現だったのだ。その一言から、子供の病への恐怖を読み解くのはすごいなと感心した。やすちゃんは、芥川龍之介の三男、作曲家の芥川也寸志のことだろう。
その時の女性が、今では小説家になっている長島槇子だ。2007年『遊郭の怪談(さとのはなし)』でメディアファクトリー主催第2回『幽』怪談文学賞長編部門特別賞を受賞した。
昨日この文章を書いている時に、その出典がないので正確な言葉がわからず、槇ちゃんに電話をしたら、今朝メールでその出典を教えてくれた。芥川龍之介『春の夜は』の一文であった。
いつもとは違う人たちと、普段とは違う話をし、宴も終わりに近づいたころ、
「小熊君は、役者をやった方がよいね」と言われた。わたしは文章を書きたいので、演技をしたいわけではない、といったが、戯曲も書きたいなら役者をやっても無駄にはならないよといわれ、次の日から、練習に参加するようになった。
今になって思えば、劇団にとって一番大切なのは、役者を確保することなのだ。今ならよくわかる。はめられた、といっても過言ではない。
劇団インカ帝国の次の公演名は『矢車草』だった。まだ、わたしは出演しなかった。
年始にあったWさんは、妹役の、
「お兄様、ほら、あそこに、ヨットが見えるわ」というセリフに、
「あらヨットっ」と絡んで、笑いをとっていた。
その芝居の中でもう一つ、わたしの好奇心をひいたのが、「『矢車草』使用音楽一覧」と題されチラシだった。
オープニングは、デヴィッド・ボウイの《ロウ》ではじまり、バルトークが流れ、次は口笛ジャックによる《口笛天国》と続いた。この選曲に、わたしは驚いた。そして休憩の時間には、日替わりでビートルズのカバー曲が流された。それも、「日替わりメニュー(ビートルズ・ライヴ発売記念)」と書いてある。もちろん、77年に発表されたビートルズの初の公式ライヴ・アルバム『ライヴ・アット・ザ・ハリウッドボウル』のことだ。
1日目は、《ヒア・カムズ・ザ・サン》S・ハーリー&コックニー・レベル
2日目は、《チケット・トゥ・ライド》キャシー・バーバリアン
3日目は、《ホールド・ミー・タイト》スタクーリッジ
あなたは、どれくらい知っているだろうか? その時、わたしは1人も知らなかった。
そして途中に、浅草オペラのスター田谷力三の《海に来たれ》が入り、最後に、ホワイト・ノイズが流れてきた。知らない曲も多く、また、知っている曲も聴いたことがない演奏ばかりだった。しかも、オリジナルの挿入曲が2曲入っていた。
そう、この選曲・作曲をしたのが、新月のヴォーカリスト、北山真だった。次回へ続く。[次回3月5日(水)更新予定]
■公演情報は、こちら
http://clubcitta.co.jp/001/jpf/
■参考
『矢車草』使用音楽一覧
※追っていくと「劇団インカ帝国」のHPにたどり着けます。
http://www.mazel-japan.co.jp/inka/yaguruma/yaguong.htm