
ライター・栗下直也さんが評する『今週の一冊』。今回は『完全ドキュメント 北九州監禁連続殺人事件』(小野一光、文藝春秋 2420円・税込み)です。
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ある格闘家が街中で刃物を振り回している人がいたらどうするかと聞かれ、全速力で逃げると答えた。ルールを共有していなければ、何をするかわからない。戦えない、逃げるしかない。この本を読んでそんなことを思い出した。
2002年に発覚した「北九州連続監禁殺人事件」は史上まれに見る凶悪事件として知られる。5歳から61歳の7人が密室で抹殺された。これだけでも恐ろしいが、首謀者とされる男は全員をマインドコントロール下に置き、自ら手を下さず、親族間で殺し合わせた。遺体も解体させ、鍋で煮込み、ミキサーで細かくして捨てさせた。
当時、その事実のすさまじさから報道は過熱した。事件を取り上げたノンフィクション本やドキュメント番組も話題になった。
語りつくされた感もある。「何をいまさら」という思いを抱いた人もいるだろうが、その認識を一変させられるはずだ。殺人は決して縁遠い事象ではなく、私たちは加害者にも被害者にも簡単になりうることがわかる。常識のある、普通の人たちが殺し、殺される側の立場に追い込まれるプロセスに驚愕する。
著者は事件発覚直後から約20年にわたって取材を続けてきた。関係者の話をはじめ警察発表や報道、裁判記録など膨大な資料をもとに、加害者と被害者の間に何が起きたかを克明に記している。
事件の残虐さと対照的に筆致は穏やかだ。派手に書きたてず、憶測を避け、事実を積み上げる。被害者たちがどのようにして取り込まれ、いつのまに雁字搦めになってしまったのか。600ページ近い厚さを感じさせない構成だ。
被害者たちがなぜ逃げ出さなかったのかは事件発覚直後から、焦点の一つだった。被害者たちは拘束されていたわけではないが、虐待の恐怖心から逆らえない心理状態になり、遺体解体を手伝わされたことで共犯意識を植えつけられたとの見方が支配的だ。