今度、人生相談の本を出版することになった。2012年9月から2013年5月まで、宇野常寛さんが編集されている週刊のメールマガジン「メルマガ・プラネッツ」で連載していたものをまとめた本である。

 宇野さんから、「國分さん、人生相談やりませんか?」と言われた時は、実に気楽な気持ちで引き受けたのだった。「メルマガの人生相談だから、大学帰りに電車の中で、iPhoneを使って返事を書けばいいだろう」ぐらいに考えていた。ところがそうはならなかった。

「そうならなかった」のには二つの理由がある。一つは相談に少なからぬ数の重々しい内容が含まれていたということである。何度か、「これに対する返答を間違えれば、自分はこの相談者の人生に間違った影響を与えてしまうかもしれない」という緊張感のもとに返事を書いたことがあった。

 もう一つは、私自身が人生相談にだんだんハマっていった、つまり、ノッていったということである。週刊連載というのはかなりの負担である。しかも、その時期の私は、6月出版予定のジル・ドゥルーズについての学術書の準備、6月頭に台湾で行われる国際会議での三つの招待講演(もちろん英語!)、そして、2012年の秋から深く関わっていた地元小平市での住民投票運動(投票日は5月末)という巨大な三つの課題を抱えていた。

 それにも関わらず連載を続けられたのは、まさしく、私が人生相談をやることにノッていたからに他ならない。とはいえ、毎日、異常な速度で頭脳を回転させていたことが、逆に人生相談に向かう自分をも鋭利にさせていたということもあったかもしれない。

 相談への返信にあたっては特に方針を決めていたわけではなかったが、ある程度進めた段階で、自分が相談相手の文面を、まるで哲学者が書き残した文章のように一つのテクストとして読解していたことに気がついた。

 哲学者の文章を読むときには、哲学者が言ったことだけを読んでいるのではダメである。哲学者が考えてはいたが書いていないことにまで到達しなければならない。

 これを人生相談に応用するなら、言われていないことこそが重要であるという一つの方針が導き出される。どんなに文章がヘタでも、表現が稚拙でも、人間が考えていること、感じていることには体系性がある。その体系性を見抜かなければいけない。

 私は人生相談というものをほとんど読んだことがないので、その定型を知らないのだが、どうやらこのように相談者の文面をテクストとして読むというやり方は珍しいようである。

 それに加えて、私がはっきりとモノを言う性格であったことが幸いし(災いし?)、テキスト分析に基づいて相談者に容赦なくズバズバと切り込むこの人生相談「哲学の先生と人生の話をしよう」は、メルマガ・プラネッツの中でもかなりの人気コンテンツになった。

 毎週金曜日の配信であったが、私はツイッターなどで寄せられる読者からの声をとても楽しみにしていた。その声によって私は更にノッていき、次の週の人生相談がまた全力で書かれるということが繰り返された。先に述べたように連載中はとても苦しく大変な時期だったが、読者と私の間で、何かたとえようのない興奮状態が約九ケ月のあいだ維持されていたように思う。この興奮だけは本に収録することができない。あれは一種の運動であった。熱心に見ていた毎週放送のテレビドラマを後からDVDでまとめてみても同じ興奮は味わえないように、あの半年の人生相談運動の興奮はもう味わえない。

 とはいえ、本には、全34回分の相談の全体を、手軽に手にとって役立てていただけるという利点がある。私の返答の多くは、私自身が悩み、そして何とか見つけ出した答えをもとに書かれている。私の経験がどれだけ他の人に役立つかは分からない。だが、全く役に立たないこともないだろう。

 そして本書をお読みいただければ分かるように、見つけ出された答えのほとんどは哲学を通じて発見されたものである。哲学が本来何かの役に立つものであるのか、何かの役に立つべきであるのかは知らないが、私は必要があって哲学に取り組んだのである。そして人生における難問に立ち向かう上で重要な認識を私は哲学から得た。私にとって哲学は人生論である。そして哲学が人生論であることと、哲学が自然や社会や政治についての重要な知見を与えてくれることとは、全く矛盾しないどころか、同値である。