今夏も欧州サッカーの移籍市場が活発な動きを見せる中、新天地への移籍を決断する日本人選手も多かった。新たに海を渡る者も含め、かつては片手で数えられるほどだった“欧州組”が、現在は60人以上に上る。しかし、その内実を見ると、南野拓実がリバプールを去り、久保建英もレアル・マドリードから完全移籍。いわゆる欧州5大リーグのビッグクラブと呼べるチームでプレーする選手は、アーセナル所属の冨安健洋のみであり、依然として日本人選手にとって「ビッグクラブで活躍する」ことは困難で、敷居は高いままだと言える。では、過去を振り返るとどうだったのか。これまで「ビッグクラブで最も活躍した日本人選手」は誰になるのだろうか。
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欧州で活躍した日本人プレイヤーの第一人者は、奥寺康彦だ。1977年10月、25歳でドイツ1部の1.FCケルンに加入。左ウイングとして1977-78シーズンのリーグ優勝とドイツ杯優勝の二冠に貢献。翌シーズンは、UEFAチャンピオンズカップ(現在のUEFAチャンピオンズリーグ)の準決勝でゴールを決めている。その後、2部のヘルタ・ベルリンを経てブレーメンに移籍し、サイドバックとして5シーズンに渡って活躍。ドイツの1部でプレーした9年間で、ブンデスリーガ通算234試合出場と26得点は、それぞれ長谷部誠と岡崎慎司に破られるまで日本人最多を誇っていた。しかし、時代はボスマン判決以前であり、ケルンとブレーメンは名門ではあるが「ビッグクラブ」とは言えないだろう。
欧州でプレーした日本人の歴史の中では、中田英寿を語らない訳にはいかない。1998年W杯出場後に“弱小”ペルージャで大活躍した後、1999-2000シーズンの冬の途中にイタリアの首都を本拠地としたASローマへ移籍。翌2000-01シーズンには、佳境を迎えた優勝争いの中でのユヴェントスとの直接対決で“伝説のミドル”を決め、セリエA優勝に貢献した。だが、外国人枠の関係もあり、ペルージャ時代1年目の33試合10得点に比べ、ローマでは1年目が半年間で15試合3得点、2年目は1年間で15試合2得点。クラブの歴史とサポーターの記憶にその名を刻んだが、数字的には「不完全燃焼」だった。