もちろん、行為の前に慎重に熟慮し、入念に計画を練り、ありうる事態に備えようと準備を試みることはとても大事だ。理不尽な不平等に対処するため、社会制度から運の要素を低減させようと試みることにも大きな意義がある。

 しかし、そうした努力には現実問題としてどうしても限界があり、運の要素を完全に排除することはできない。また、そもそも、運の要素は完全に排除すべきものだとも言えない。人であれ、他の事物であれ、思いがけないものや計り知れないものとの出会いは、私たちに悲しみや絶望を与えるだけではなく、ときに喜びや希望を与えもするのである。

 いずれにせよ、はっきりと言えるのは、「すべては運次第だ」という主張も、それから、「すべては意志や努力次第だ」という主張も、どちらも間違っているということだ。

 漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の主人公・両さんは、あるとき、

「入試 就職 結婚 みんなギャンブルみたいなもんだろ 人生すべて博打だぞ!」(秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』第六〇巻)

 と言い放ち、後輩の麗子と中川からすぐに、「そう思って無計画に生きてるのは両ちゃんだけよ」「みんなはギャンブルと思ってませんよ」とつれなくあしらわれている。

 両さんの主張は明らかに行き過ぎた極論だが、それを言うなら、麗子や中川の主張も同様だ。むしろ、彼らの主張の方がたちが悪い。なぜなら、人生に多かれ少なかれ賭けの側面が含まれること自体は、大半の人が実際に認めている事実だからだ。それゆえ、「みんなはギャンブルと思っていない」という台詞は端的に嘘を言っていることになる。あるいは、自分自身を騙す自己欺瞞(ぎまん)に陥っていることになる。

 そうした不誠実なきれいごとが、学校やその他の社会の表舞台で「道徳的に正しい主張」としてまかり通るかぎり、その裏側で、「親ガチャ」や「顔ガチャ」といった表現は人生の比喩として流通を拡大し続けるだろう。いや、むしろ、人生の真実を暴く表現としてもてはやされ、過剰な説得力を獲得し続けるだろう。

 運などそもそも存在しないかのように、「すべては意志や努力次第だ」という道徳的建前を繰り返すのではなく、運が不断に織り込まれたものとしての人生のありようを、多様な角度からあるがままに捉え、語ろうとすること。――「ガチャ」の比喩が行き渡った場所に届くのは、そうした言葉だと思われる。

◆ふるた・てつや 1979年生まれ。東京大学准教授(倫理学)。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。著書に『言葉の魂の哲学』(サントリー学芸賞受賞)、『このゲームにはゴールがない』など。

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