実績のあるメジャーリーガーが新助っ人として来日することも珍しくなくなった昨今だが、過去には、日本球界入りが噂されながら、実現しなかった“超大物助っ人”も何人かいる。
その一人が、メジャー通算324勝の剛腕、ノーラン・ライアンだ。
1988年オフ、12勝11敗の成績を残し、アストロズをFAになった41歳のライアンをめぐり、エンゼルス、レンジャーズ、ジャイアンツの3球団が獲得に動いていた。
だが、ライアンは、72年から8年間在籍した古巣・エンゼルスが年俸150万ドルの3年契約を提示したにもかかわらず、態度を保留していた。
そんな矢先、新外国人投手の調査のため、ウインターミーティングに顔を出したオリックスの矢形勝洋球団本部長は、ライアンの代理人から年俸200万ドル(当時のレートで約2億4400万円)で契約を持ちかけられたという(2017年4月18日付・サンスポ「昭和野球列伝」)。
ライアン自身も「野球人生の最後を日本でプレーしてもいい」と選択肢のひとつに挙げていた。阪急を買収したばかりの新球団・オリックスにとっても、耳寄りな話であり、ライアンの活躍しだいでは、1年目でいきなり優勝の可能性もあった。
だが、門田博光を年俸1億円で入団させたばかりのオリックスは、その2倍以上の高い買い物に対し、即答を見合わせた。
そして、2日後の12月7日、ライアンは2年総額320万ドルでレンジャーズと電撃契約。ジャイアンツのアル・ローゼン球団社長を「一度テキサスに生まれた男は、死ぬまでテキサス男なんだな」と悔しがらせたが、オリックスも大魚を逃す結果になった。
翌89年、ライアンはレンジャーズで16勝と前年以上の好成績を挙げ、オリックスは近鉄にゲーム差なしのわずか1厘差で優勝を逃した。
契約条件が安くても故郷でプレーする道を選んだライアンだけに、仮に「200万ドルでOK」と即答していても、獲得は難しかったかもしれないが、それでも日本でプレーするライアンの姿を見たかった気もする。