幕府内では将軍派と執権派が対立する時期もあったが、北条氏はそれらを制して北条氏惣領(得宗)に権力が集中する得宗専制へと移行する。「得宗」は、北条義時の法名「徳宗」にちなんだ呼び名だ。しかし、御家人たちは次第に貧窮していく。戦が減った世では所領を増やす機会がなく、相続によって所領が細分化されていったからだ。

 
 その貧窮化がいっそう進んだのが、文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の2度にわたる蒙古(元軍)襲来だった。

「まさか来るまい……」と思われていたものが現実となったのが、この蒙古襲来。最初の襲来(文永の役)では、貴族や寺社も戦費・労役の負担に応じ、鎌倉に対する忠誠心が低かった西国の御家人たちも加わるなどした結果、元軍を撃退することに成功。時の執権・北条時宗の権力は絶頂に達した。

 しかし、出陣した御家人たちが手柄を訴え、幕府に恩賞を求め始めると、その様相が変化していく。文永・弘安の役では所領が増えたわけではなく、幕府が彼らに与えるものはなかったからだ。

 鎌倉幕府の権威は次第に弱まり、各地に楠木正成、赤松則村、名和長年ら幕政から外れた「悪党」と呼ばれる新興武士勢力が台頭。その彼らが幕府を倒す力へと成長していく。

新田義貞は建武の新政樹立に尽力。軍事の天才としても名高い

 そこから幕府滅亡まで、時間はそれほどかからなかった。

 1321年、後醍醐天皇が院政を停止し、親政に乗り出す。
 1324年、天皇の倒幕計画を六波羅探題が察知し、日野資朝、日野俊基を捕縛(正中の変)。
 1331年5月 後醍醐天皇の再度の倒幕計画が密告される(元弘の変)。
 同年8月、京を脱出した後醍醐天皇が笠置山で挙兵。
 同年9月、河内の豪族、楠木正成が天皇に呼応して赤城城で挙兵。笠置が陥落し、後醍醐天皇が捕らえられる。
 1332年3月、後醍醐天皇が隠岐へ配流。
 同年11月、後醍醐天皇の皇子、護良親王が吉野で挙兵。さらに楠木正成が呼応し、千早城で挙兵する。
 1333年1月、赤松則村が護良親王らに呼応して挙兵する。鎌倉から大軍が京に至る。
 同年閏2月、後醍醐天皇が隠岐を脱出。名和長年が迎え、船上山に拠る。
 同年3月、赤松則村が京へ進出。
 同年4月、有力御家人の足利尊氏が丹波で倒幕に転じて挙兵。
 同年5月、新田義貞が鎌倉を攻めて、これを陥落させた。北条高時が東勝寺で自害。鎌倉幕府は滅亡。

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