SWSがなかったらプロレスは旧態依然としてなにも変わっていなかったと思うし、プロレスの市場規模がもっと小さくなっていたんじゃないかな。平成後期の新日本プロレスだって、他企業が進出しようという機運になったのはSWSの前例が少なからず影響していると思うんだ。平成のプロレスはSWSが出来たことが転機だったと今でも思うよ。
SWSの解散後、俺自身は流浪の身になったけど、心には「俺はSWSに主力として引き上げられた天龍だ」というプライドがずっとあった。やっぱり、自分の中でも嬉しいことだったんだよね。
だから晩年はワケのわからないリングに上がっているときに「SWSに引き抜かれた俺が、いつまでもプロレスにしがみついてなにをやっているんだ……」と自問自答する俺もいた。そういった思いがプレッシャーにもなっていたんだと思う。
ただ、カッコいいことを言わせてもらうと、周りがなんと言おうと、天龍源一郎としてリングに上がれる限り、金を稼ぐことができた。そうすれば嶋田家は潤うわけだから「家族のため」と割り切ってリングに上がっていた時期もあったよ。そういえば、ハッスルも最初はよかったけど、最後はなにをやっていいかわからなくなっていたね。ギャラの未払いもあったし……。
昭和と平成での違いは、目先のギャランティで惑わされたってのは大きいかもしれないね。よくも悪くもね。昭和の人は力道山関のいるプロレスで頑張っているだけで満足だったが、昭和後半から平成になると力道山関を知らない世代は満足できなくなって、金がほしくなって、移籍も多くなったよね。
そういった時代の変化もあって俺も金が稼げるようになり、平成初期の40歳すぎくらいが一番よく遊んだよ。若かったしね。遊ぶのはいつも俺と楽ちゃん(故・三遊亭円楽さん)、岡ちゃんの3人だ。岡ちゃんは会社経営者だったけどタニマチという関係でもなく、フランクな友だち付き合いだった。
岡ちゃんももともと楽ちゃんと知り合いだったし、斜に構えたところも無かったから楽しく遊べたよ。銀座に飲みに行って3軒ハシゴして、一人一軒ずつ金を払うんだ。そうやって朝まで飲んで、飲む店が無くなって、上野駅の売店で酒を買って飲んでいたくらい(笑)。