幼年期・青年期の家康は生家である松平氏が凋落し、隣国の駿河・尾張の争いに翻弄された結果、人質として決して本意とはいえない日々を過ごすことになる。運命が変わる転機となったのが、桶狭間の戦いだった。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』では、大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を担当する小和田哲男さんが、家康、若き日の危機と決断に迫った。(全3回の1回目)
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家康が徳川を苗字とする前の苗字が松平だったことは周知の通りである。苗字の地は三河国松平郷(豊田市松平町)で、その地の土豪・松平太郎左衛門尉信重からある程度のことがわかってくるが、その先祖となるとわからない。
ところが、家康以降に作られた系図では、松平氏は清和源氏の末流ということになっている。そこでまず、そのいきさつを追ってみよう。
系図によると、新田義重の子・義季が、上野国新田荘世良田村徳川郷(群馬県太田市徳川)に住み、徳川を称したとし、この義季を始祖として、親氏に至ったとする。その親氏が徳阿弥という時宗の僧となって諸国をめぐるうちに松平郷の土豪・松平太郎左衛門尉信重の娘婿となり、これが松平初代に数えられるというものである。
清和源氏新田氏につなげる系図が作られたとの印象もあるが、家康の祖父にあたる清康は、自ら「世良田次郎三郎」を名乗っており、松平氏では、新田流徳川氏というのが信じられていたのであろう。
初代親氏、二代泰親の頃はよくわかっていない。三代の信光のあたりから歴史がわかってくる。信光のとき、文明初年(1469頃)、松平郷から安城(愛知県安城市)に進出し、城を築いている。以来、七代清康まで、安城城が松平氏発展の中心となった。
信光には子が男女あわせて48人もあったといわれ、庶子を各地に分封し、そこから竹谷松平・形原松平・大草松平・宮石松平・丸根松平・能見松平・長沢松平の七松平が生まれた。もっとも、系図によっては、守家(竹谷)・與嗣(形原)・光重(大草)・光親(能見)・親則(長沢)の五家が信光の子から分派したとするものもある。こうしていわゆる十八松平が創出され、宗家を中心にした同族結合が形成され、一族一揆と呼ばれているが、いつも一致団結していたわけではなく、一族内の争いも絶えなかった。