安城松平の宗家七代の清康は、父で六代信忠の弟・桜井松平信定に安城城を逐われることもあった。しかし、わずか十三歳で家督を継いだ清康は岡崎松平の娘を娶ることによって岡崎城への入城を果たし、ここに、宗家清康は安城松平から岡崎松平となり、城をそれまでの明大寺から竜頭山に移している。これが戦国から近世の岡崎城となる。

 そして松平氏は、この清康のときに勢力を拡大し、西三河を代表する国人領主、すなわち国衆へと成長する。国衆というのは、戦国大名にまではいかないが、一郡ないし数郡を支配し、当主と一門・家臣からなる「家中」を構成し、所領の一円支配を行う武将のことである。

 ところが清康は、天文四年(1535)、尾張へ侵攻したとき、家臣の阿部弥七郎に殺されてしまった。「守山崩れ」とよばれている。(次回へ続く)

週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』から抜粋

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