経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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今年の11月9日は、ベルリンの壁倒壊30周年の日だった。
1989年のあの日。壁の上に密集する人々の映像が世界を駆け巡った。あの光景を思い浮かべると、今でも感涙が止まらない。奇跡は起こる。それを確信した瞬間だった。90年10月にロンドンに赴任した筆者は、着任早々にベルリンに行った。出発に際しては、イギリス人の知人たちに「おみやげは壁の破片にしてね」といわれたものである。
だが、いまやそれも昔物語。壁は、破片といえどもあとかたもない。ただ、今なお残る問題はある。というよりは、壁が倒れてしばらくしてから、次第に生起し始めた問題と言った方がいい。それは、旧東ドイツ側の市民たちの中に巣くう西高東低感である。いつまで経っても、自分たちは二流市民扱いだ。お高くとまった旧西ドイツの衆に白い目でみられる。軽蔑される。訛りがあると笑われる。むしろ、壁があった時の方が、我々は誇り高かった。
こうした旧東ドイツ人たちの思いは、壁倒壊直後の熱狂が冷める中でいち早くくすぶり始めた。そして今、彼らの西高東低感は、その自己認識や政治社会観に表れるようになっている。物理的な壁が消えたところから、東西を分断する心の壁が姿を現し始めたのである。
実際に、世論調査結果によれば、民主主義体制が最良の政治社会体制だと思うかという問いかけに対して、旧東ドイツの5州では、全体の31%しか肯定的に回答していない。選挙における投票行動にも、この感性が明確に投影され始めた。旧東ドイツ諸州では、このところ、地方議会選挙が相次いでいる。ザクセン、ブランデンブルク、チューリンゲン。いずれの州でも、極右政党の「ドイツのための選択肢(AfD)」が躍進。東ドイツ時代の政治的系譜につながる極左勢力「左翼党(リンケ)」も一定の支持を得た。チューリンゲンでは、メルケル首相率いる「キリスト教民主同盟(CDU)」が何と両党に次ぐ第3位に転落してしまった。
オスタルジーという言葉がある。オストはドイツ語で東を意味する。オストの時代へのノスタルジー。これが今、東西ドイツ間の心の壁を高める。悲しや。
※AERA 2019年11月18日号