とりわけ大きな力になったのが、1768年の正殿大修理を記録した「寸法記」だ。A4サイズほど(19.7×27.4センチ)の和紙をとじた冊子には、柱や壁の位置を記した平面図や細部の寸法、瓦のふき方に至るまで詳細に記録。今回の火災で焼失した正殿の向拝前面にあしらわれた唐獅子や牡丹、柱の昇り龍の図柄だけでなく、色の指定も事細かに書き込まれていた。

 岩波書店で初めて「寸法記」を開いた際、波照間さんは『沖縄文化の遺宝』に収録された正殿のモノクロ写真からは想像もつかない、朱や金で彩られた首里城の姿に思いをはせ、「この資料があれば復元できる」と確信したという。

■賛美だけとは限らない首里城への複雑な思い

 波照間さんはその後、寄贈資料を扱う県立芸大附属研究所所長として、「鎌倉ノート」を編纂した『鎌倉芳太郎資料集』全4巻を刊行。大学ノートに万年筆でびっしり書き込まれたページを一枚一枚めくり、その正確さと細かさに感嘆したという。筆写は何度も校正され、1字、1画に至るまで朱の直しが入れられていた。

 1992年。ベンガラ漆で朱色に塗り上げられたきらびやかな正殿がお披露目されると、石垣島出身の波照間さんには、研究者としての感慨とは別に、複雑な思いもよぎったという。

 石垣島を含む沖縄県の宮古・八重山地方は琉球王朝時代、差別的な税制に苦しめられたからだ。1500年には八重山地方の当時の首領オヤケアカハチが貢租を拒否し、首里王府に討伐された。石垣市内にはオヤケアカハチを英雄とたたえる碑も建立されている。波照間さんは「子どものころから、首里王府に何百年も虐げられた歴史を聞かされて育っているので、首里城を見る目は単なる賛美の視線だけではありませんでした」と当時の思いを語る。

 ただ30年近く、毎日のように職場から首里城を眺めるうち心情に変化が生じたという。

「首里城は単なる王権の象徴というレベルを超え、ウチナーンチュ(沖縄の人)のアイデンティティーを象徴する存在だととらえるようになりました。これは私だけではない、と思います」

 今年2月、波照間さんは首里城全域の整備完了に伴う記念式典に出席。火災はそれからわずか8カ月後におきた。

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海外研究者からも焼失を惜しむ声