福田晴一(ふくだ・はるかず)/昭和31(1956)年、東京都生まれ。みんなのコード学校教育支援部主任講師、元杉並区立天沼小学校校長。約40年の教員生活を経て、2018年4月NPO法人「みんなのコード」に入社。61歳で新入社員となる。2020年度からの小学校におけるプログラミング教育必修化に向け、指導教員を養成すべく、全国を東奔西走中福田晴一(ふくだ・はるかず)/昭和31(1956)年、東京都生まれ。みんなのコード学校教育支援部主任講師、元杉並区立天沼小学校校長。約40年の教員生活を経て、2018年4月NPO法人「みんなのコード」に入社。61歳で新入社員となる。2020年度からの小学校におけるプログラミング教育必修化に向け、指導教員を養成すべく、全国を東奔西走中
入社して1カ月後のオフサイトミーティングで言った逗子海岸での一コマ。新入社員(私と本当の新卒女性社員)も入ったので、「今年1年みんなで頑張るぞー」的な、青春ドラマのような一枚。(左から3人目が私、4人目が代表)入社して1カ月後のオフサイトミーティングで言った逗子海岸での一コマ。新入社員(私と本当の新卒女性社員)も入ったので、「今年1年みんなで頑張るぞー」的な、青春ドラマのような一枚。(左から3人目が私、4人目が代表)
 61歳で公立小学校の校長を定年退職した福田晴一さんが「新入社員」として入社したのはIT業界だった! 転職のキーワードは「プログラミング教育」。福田さん奮闘の日々をお届けします。

【61歳で新入社員となった福田さんの青春ドラマのような一枚?】

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 昨年は、私の60余年の人生の中でもトップになるぐらいの激動の1年だった。

 まずは40年の教員生活にピリオドを打ったこと。

 公立小学校の校長として毎朝校門の前で子どもたちと挨拶し、教員たちからは毎日あらゆる相談を受け、時には親御さんたちからの厳しい相談、苦言の電話の対応をし、運動会の当日は誰よりも早く起きて天気をチェックし……。公立小の校長としては「型破り」なタイプだったと自他共に認めてはいるが、やはり最終的には校長として「正しい判断」を下すことに心を割いてきた日々だったと思う。

 それが4月からは生活は一転した。

 なんと渋谷にオフィスを置く、プログラミング教育を幅広く推進するNPO法人「みんなのコード」の新入社員となったのである。ボスは30代前半。20代、30代のハイクオリティー、ハイスペックの若者たちに混じって白髪混じりの私が仕事をしていくことになったのである。もはや誰も私に「正しい判断」など求めていない。いや「正しい」ことがあまり必要とされない世界、というべきか。

 ネクタイを外し、MacBookを小脇に抱えてちょっと若者ぶり……1年前には想像だにしなかった自分がいたのだ。

 なぜこの道を選んだのか。少し話は過去に遡る。

 私が小学校教員になったのは、昭和54年のこと。この年はじつは今、注目される「特別支援教育」に関しては、エポックな年だ。今は「インクルーシブ」「共生」と言う言葉がトレンドであり、学校も「障害のある人も一緒に学ぶ」という風潮になっているが、昭和54年以前は「就学猶予」という表面的な制度で、「障害のある児童生徒は無理して学校に来なくていいですよ……」と、在宅を暗にすすめるシステムであった。

 
 それが、昭和54年に障害の有無にかかわらず、全児童生徒が学校に通う「全員就学」が始まった。当然、日本全国には養護学校(現在の特別支援学校)が多く新設された。この「インクルーシブ教育」こそ私の永遠のテーマだといっても過言ではない。

 それから普通小学校の教員を20年近く務め、管理職になってからは、特別支援学校の教頭、アメリカの在外施設の校長、日本の小学校の教頭、校長は2校と、バラエティーに富んだ経験になった。

 そして昨年。退職を目前に控え、今後の人生をどうすべきか改めて考えた。後輩の育成や忙しい学校現場を支える非常勤職員になるか。自身の専門性を生かして教員養成系の大学の非常勤講師の道に進んだ先輩もいる。私も同様に、教育委員会の非常勤職員、大学関係の話もあり「さてどうするか」と、思案する年であった。

 そんな折、リンダ・グラットン氏「LIFE SHIFT」を読み、同時期に政府にも「人生100年時代構想推進室」が新設されたことも、退職後の選択肢を考える触発となった。「20年の教育、40年の仕事、そして20年の隠居」と言う、人生80年の従来のライフ・シナリオが崩れていること、成立しにくいことも痛感した。

 そして改めて自分の40年の教員生活を振り返ると、子どもたちとの貴重な学校生活もあるが、やはり後半の多彩な管理職経験で培った幅広い知見や、多様な考え方が浮き彫りになる。特に、最後となる勤務校での学校経営は次世代を見据えた教育活動に注力してきた。それが「プログラミング教育」である。

 私自身の新しいもの好きな性格はもちろん、「プログラミング」は以前から私の思考の対象だった「発達障害」「テクノロジー」「地域再生」のキーワードともマッチングするところが多く、のめり込むようにして取り組んだ。

 実は「みんなのコード」の利根川裕太代表(現在の私のボス)には、学校で「プログラミング教育」を試行錯誤しながら進めていく中で、何度も教えを乞い、相談に乗ってもらった人物なのだ。私の娘と同じぐらいの年代ながら、彼の幅広い知識、パッション、交渉術、全てに尊敬の念を抱いていた。「すべての子どもがプログラミングを楽しむ国にする」という「みんなのコード」が掲げるモットーにももちろん共感していた。

 
「プログラミング教育の普及を一緒にやりませんか」――そう利根川代表に声をかけられた時、自分でもびっくりするほど心は固まっていた。あとから、「本当に来るとは思いませんでしたよ」とボスに言われてしまったのだが……。

 そして私は昨年の4月より、「みんなのコード」の「指導者養成主任講師」となって、全国の教育委員会や小学校を行脚することになったのである。「みんなのコード」が目指すのは、「2021年3月末までの3年間で、全国各地において約100回以上の『プログラミング指導教員養成塾』を開講し、全国で計2000人のプログラミング指導教員を養成する」という大きな計画だ。

 私もそのミッションの乗組員の一員となった。以前のような船頭ではなく、あくまで一船員としての参加だ。

 そこではどんな新たな景色が見られるのか――。私なりにレポートしていきたいと思う。

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それが、昭和54年…