お笑い芸人のマキタスポーツさんによる「AERA」の連載「おぢ産おぢ消」。俳優やミュージシャンなどマルチな才能を発揮するマキタスポーツさんが、“おじさん視点”で世の中の物事を語ります。
* * *
仕事をしていると、よくロックTシャツを着ている若い制作スタッフに出くわす。
「お! NEVER MIND、最近また着ている子多いよね~NIRVANAのTシャツ」
「流行ってるんですよ~、で、カワイイな~と思って!」
流行ってる? カワイイ?
「ローゼス(The Stone Roses)のレモンTシャツ着てるけど、意味わかってる?」
「ローゼス? 何言ってんすか? これレモンですよ? てか、カワイイっしょ!」
悶々とする。その理由を、賢明なアエラ読者にどうか聞いてほしい。それは……「文脈はいらないの!?」。
彼ら、彼女らは決まって言う。「カワイイから着てる」と。“カワイイ”ってそんなに万能なのか? それがどういう経緯で生まれたのか興味はないのか? 例えばNIRVANAの登場で、派手で仰々しいLAメタルなどが駆逐されたこととか、ローゼスが放ったテーゼ「90年代はオーディエンスが主役」が、いかにフラットなこの時代を予見したかとか……さらに言えば、今キミたちが楽しんでる音楽にも元ネタがあって、いくつかの歴史的変遷を経てその作品は存在しているのであり、キミが着ているTシャツのヒーローがバトンを繋いでくれたからこそキミたちにそれらが届いているのだと。
少し冷静になってみよう。
デザイン、コンセプトが優れていて結果ユニバーサルデザインになってしまうものはある。かのTシャツは確かに普遍的価値があるのかもしれない。ましてや、ローゼスのそれじゃないが、今や誰かの“特権的場所”からの発信はお寒いと思われるスーパーフラット時代。消費者ファーストの視点に立って言えば、ひょっとすると「文脈」より「カワイイ」が勝っているだけなのかも。
マニアと一般との間に壁が出来、もどかしい思いをすることが私の専門の邦楽方面にもあった。評論にぶら下がってようやく存在できる、ひ弱な音楽は昔からある。アーティストの時代的な価値、音楽の実験性といった文脈をきちんと評価しておくことは必要だ。でも、一方で、サザンや、ユーミンは説明不要に歌い継がれているのは何故なのか。
動画アプリTikTokで倖田來未の歌う「め組のひと」が小学生の間で流行っているという(2018年現在)。原曲はラッツ&スターの1983年のヒット曲。で、倖田來未がカバーしたのが2010年。カバーしていたことすら知らない読者も多いだろう。もちろん小学生はラッツ&スターを知らない。それどころか倖田來未すら、小6の次女に聞いたら「やしろ優の人でしょ?」だ。“文脈警察”が取り締まりを強化したら、こんなことにはならない。
全ての文脈を横断する「カワイイ」というユニバーサル性と、「全員が主役」の自己表現時代。め組のひとも、Tシャツも全ては自分をカワイイに仕上げるタネ。そんな時代にうっかり文脈強要すれば、即“文脈ハラスメント”と言われるかも。気をつけたい。
でも、最後に言わせて欲しい。私が文脈を口にするのは、歴史に対する理解、ひいては、先輩である私の話を聞いて学んで欲しいから。断じて言うが、愚痴じゃない。
※AERA 2018年10月1日号