沖縄に、陸軍中野学校によってゲリラ兵に仕立てられた少年たちがいた。「護郷隊」──。戦後73年、「地獄」を生き残った元少年兵の記憶は今なお消えない。
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じっとりと体にまとわりつくような雨が降ると、沖縄県名護市に住む玉里勝三(たまざとかつぞう)さん(90)は遠い記憶がよみがえる。
「においよ。吐いてしまいそうな、耐えられないにおいよ」
どんな動物の死体のにおいとも違う。鼻の穴の奥までむっとする腐敗臭、戦場に漂った人間の死臭。長い年月をへて記憶の細部ははがれ落ちているが、これだけは決して忘れることのない「地獄のにおい」だ。
73年前、玉里さんは、極限の戦場にいた。「ゲリラ兵」として沖縄の山に潜み最前線で戦ったのだ。わずか16歳の少年だった。
沖縄に暮らす人にすらあまり知られていないが、沖縄戦では14歳から18歳までの子どもたちがゲリラ兵に仕立てられ、戦場に送り込まれていた。部隊の名前は「護郷隊(ごきょうたい)」。「故郷を護(まも)る部隊」という意味が込められているとされるが、“秘密部隊”という特殊性から写真も映像も残っていない。その数、約1千人。玉里さんはその一人だ。
3人兄弟の末っ子として名護に生まれた。国民学校(小学校)を卒業し、沖縄本島の北に浮かぶ伊江島で軍の飛行場造りに動員されていた1944年10月、召集令状が届いた。
「1億総動員」と言われ、国のために尽くすのが国民の義務だと教え込まれていた時代。玉里さんは、2人の兄が召集されて海外で戦死していたが、当然のことだと令状に従った。集合場所として指定された名護国民学校に行き、地下足袋とふんどし一つを持って入隊した。
「怖いということはなかったね。当たり前よ」
そのころ日本はサイパン、テニアン、グアムなどで敗北が続き、フィリピン沖の海戦では飛行機ごと敵艦に体当たりする「特攻」を始めた。日に日に戦況が悪化する中、沖縄では、大本営が沖縄守備軍である第32軍の牛島満(うしじまみつる)司令官に対し、本土決戦までの時間稼ぎをするためのゲリラ戦を命じた。当時の兵役法では満17歳以上からしか召集をかけることはできなかったが44年12月、規則が変更され、「志願」という形をとれば14歳以上であれば兵士として召集できることになった。
しかし、なぜ少年だったのか。国の未来を担う子どもたちを、なぜ戦争に利用したのか。