批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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筆者の会社では、大手旅行会社と組み、ほぼ1年に1度チェルノブイリへの「観光ツアー」を実施している。今年で5回目になる。
チェルノブイリ周辺への立ち入りはいまでも制限されているが、2011年から一定条件下で観光客の訪問が解禁されている。それを受け弊社は13年からツアーを実施している。観光客は年々増加し、17年は約5万人が立ち入り制限区域を訪れた。同区域の入り口には土産物屋まで存在する。
この変化を「不謹慎」と批判する声もあろうが、観光地化は同時に情報公開でもある。実際弊社のツアーでは、原発構内に入り、廃炉作業のコントロールセンターまで見学させてもらっている。情報公開というとマスコミへの取材許可が重視されるが、本当はそれだけでは十分ではない。一般市民が見てこその情報公開である。事故現場を一般外国人にまで開放するウクライナ政府の姿勢は、この点で高く評価できる。
とはいえ、定期的に訪れているとさまざまな変化も見えてくる。今年は現地ガイドのあいだで急激な観光地化に戸惑う声が複数聞かれ、その点も逆に考えさせられた。立ち入り制限区域の観光は認定ガイド同行で行われるが、ツアー数の急増で質に問題が出ているという。「質のよい観光」を維持するのは、なかなかたいへんなようだ。
チェルノブイリについての記事やルポは無数にある。にもかかわらず筆者がこのツアーを続けているのは、「観光客」だからこそ発見できる本質があると考えるからである。
チェルノブイリの事故は深刻で被災者も多い。けれども観光地化は進んでいるし、ウクライナの原発依存率は高い。それは矛盾に見えるが、現実とはしばしばそういうものである。目的をもった取材はしばしば目的に合った現実しか紹介しない。観 光客は無目的だからこそ、逆に矛盾を矛盾のまま受け取ることができる。筆者はまずそれが議論の前提だと考える。
日本ではいつのまにか、原発賛成か反対か、旗色を鮮明にしないと原発事故について語れなくなってしまった。毎年のウクライナ訪問は、硬直した頭をほぐすいい機会になっている。
※AERA 6月25日号