哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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テキサスの高校でまた銃の乱射事件があり、10人が犠牲になった。17人の死者を出したフロリダの高校での事件後、米国では銃規制を求めるデモが全土で行われた。だが、トランプ大統領が打ち出した再発防止策は「教職員が銃火器の使用に習熟することを求める」「退役軍人や退職警官を教師に採用する」といった「銃でしか銃を制御することはできない」という信憑を露呈するものだった。
1791年制定の憲法修正第2条には「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、市民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない」と定めてある。独立戦争初期に英軍との戦いに立ち上がったのは武装した市民であった。彼らが米国の礎を築いた。だから、「市民は銃を持つべきではない」という主張は建国の正統性を否定することだと銃規制反対派は主張する。
だが、どんな法令もそれが制定された歴史的文脈というものがある。武装権を認めた第2条に続く第3条は「軍隊の舎営」についての規定である。そこには「平時においては、所有者の同意を得ない限り、何人の家屋にも兵士を舎営させてはならない」とある。それは「戦時では、所有者の同意なしに家屋を接収できる」ということである。この二つが同時に制定されたという事実から推して、武装権もまた「戦時では」という限定を伴った緊急避難的措置であったと考えられる。けれども、歴史的環境が変わった後も、この条文は手つかずのまま残された。
もし「兵士がはずした戸板はもとに戻しておかなければならない」とか「兵舎の便所は人家から十分に距離を置いて作らねばならない」という条文がまだ憲法に残っていたら、米国の市民たちも「こんな条文はもう必要がない」と言うだろう。
ちなみに、この二つは長征の時に定められた紅軍兵士規則の一部である。この規定を遵守したことによって紅軍は農民の支持をかちえて、その政治的基礎を築いた。しかし、中華人民共和国憲法にはそんな文言はもう残されていない。それを削ったくらいのことで建国の正統性が損なわれることはないという常識が通ったのである。
※AERA 2018年6月4日号