哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
* * *
麻生太郎財務相が、前財務事務次官のセクハラ問題について「セクハラ罪という罪はない」「殺人とか強制わいせつとは違う」などと発言して、いったん鎮火したはずの財務省セクハラ問題を再燃させている。
大臣がこういう展開を予測しないで不用意な発言をしたのだとすれば、彼の知性はかなり不調だということになる。それほど知的に不調な人物が職務を完遂することは困難だと思うが、政府部内からも与党からも特に辞職を促す声がない。ということは、これは財務相が「火に油を注ぐ」ために意図的にした発言だということについて、政府与党内では合意が調っているということになる。では、なぜ彼は「こんなこと」をしたのか?
第一の解釈は、政府与党の人々もセクハラというような「些細な問題」で要人の適性を云々すべきではないと本当は思っている(でも口には出さずにいる)ということである。要人については職務遂行能力についてのみ、その適否を論ずべきであって、品格や知性や倫理性などは考量すべきでないというのは、一つの見識ではある。「政治家が無学で何が悪い」「官僚が下品で何が悪い」と改めて凄まれると、私も返答に窮する。
第二の解釈は、相次ぐ問題発言にもかかわらず、誰も彼を処罰することができないという事実そのものを前景化させるためだというものである。誰も咎めない正しいふるまいをしても、権力者は自分が権力を持っていることを実感できない。
けれども、ふつうの人が言ったりした場合には、ただちに厳罰が下されるような言動をなしても処罰がなされないという事実は、権力者に強い全能感をもたらす。だから、権力者は自分の権力を確認するために、「ふつうの人がしたら罰されること」をしばしば意図的に行うようになる。
「それでも処罰されない」という事実が、それだけの権力が自分にはあることを確信させてくれるのだ。子どもが親の愛情を確かめるために「どこで怒り始めるか」の限界を試したり、DV夫が妻の忍耐を自分への愛情表現と解釈したりするのと心理機制としては変わらない。さて、いずれの解釈が妥当なのだろう。
※AERA 2018年5月21日号