とはいえ簡単な道のりではない。私もこの問題を様々な人と話してはいるが、「被害者の思いを考えると、この問題はあまり公にしないほうがいいと思う」という人は少なからずいる。#MeToo以前の感覚をいまだに引きずっているのだろう。#MeToo以前は、性被害者は語れない、なぜなら性被害は恥だから、と信じられてきた。そういう社会を#MeTooは劇的に変えたのだ。#MeTooが明らかにしたのは、性被害者は語れないのではなく、語ることを諦めていたということ、そして性被害者が求めているのは、事実が認められ、謝罪を受けることだった。
これまで声をあげた被害者の中には、「ジャニーさんに気に入られなければ、センターに行けない」という証言をしている人がいて、それは、芸能人としての成功が性被害とセットであるかの印象をあたえてしまう。そのため、有名になった被害者がますます語れないような状況をつくってしまっている現実もあるが、これこそがとんでもない間違いだ。性被害を、まるで合意の上に成立した契約のように子供たちが「思わされている」こと自体が、そして今も被害者がそう信じていること自体が、既に深刻な暴力が日常的に子供たちを支配していたということだからだ。
また、「被害者が女の子だったら、もっと社会問題になる」というようなことを言う人がけっこういるが、本当にそうなのだろうか。そもそも、女の子のアイドルは10代から性的な対象として消費され、仕事と性搾取は限りなく表裏一体で、誰も明確に線引きなどできていない。10代の女性が成人男性向けの雑誌で性的なアピールをする姿は決して珍しいことでもなく、若い女性ほど性的に価値があるとされる社会で、ジャニー喜多川氏の被害者が女の子だったらもっと問題になったはずだ、というのは楽観的すぎるだろう。むしろ「性的に消費されるのが当たり前」だからこそ、芸能人女性の訴えは非常に難しい。また、「性的な被害になるのは女性だけ」という意識が強い社会では、男性被害者が告発するのは難しい。被害者が女の子か男の子かということではなく、「子供」であったことの問題を、社会としてもっと重たく考えたい。