西サハラ亡命政府「サハラ・アラブ民主共和国」の国旗をまとう女性。背後に「砂の壁」が見える。これ以上近づくと地雷とモロッコ軍の銃撃という危険がある(撮影/川名生十)
西サハラ亡命政府「サハラ・アラブ民主共和国」の国旗をまとう女性。背後に「砂の壁」が見える。これ以上近づくと地雷とモロッコ軍の銃撃という危険がある(撮影/川名生十)
この記事の写真をすべて見る
民族衣装メルファをまとった女性カメラマン・ハディジャ。難民キャンプの集会場で大統領の演説を撮影し、西サハラ人向けのテレビで放映する(撮影/川名生十)
民族衣装メルファをまとった女性カメラマン・ハディジャ。難民キャンプの集会場で大統領の演説を撮影し、西サハラ人向けのテレビで放映する(撮影/川名生十)
難民3代。娘と孫は難民キャンプで生まれ育った。娘は一枚の大きな布でできた民族衣装をまとう(撮影/川名生十)
難民3代。娘と孫は難民キャンプで生まれ育った。娘は一枚の大きな布でできた民族衣装をまとう(撮影/川名生十)
2017年8月、アルジェリアのブメルデスで開かれた集会で、政治囚の写真を掲げて釈放を訴える被占領民のアイシャ(左端)(撮影/川名生十)
2017年8月、アルジェリアのブメルデスで開かれた集会で、政治囚の写真を掲げて釈放を訴える被占領民のアイシャ(左端)(撮影/川名生十)

 42年前の2月27日、アルジェリアの砂漠で西サハラ難民が「サハラ・アラブ民主共和国」の建国を宣言した。しかし、祖国解放はいまだ実現していない。難民生活は親、子、孫の3世代にわたり、限界に近い。ジャーナリスト・平田伊都子氏が西サハラの今をレポートする。

【民族衣装をまとった女性カメラマンなど、その他の関連写真はこちら】

*  *  *

 西サハラは、日本から見て地球の裏側に位置する。

 広さは本州の約1.2倍、大西洋に面する海岸線は1200キロメートル。陸地の大部分は砂漠で、定住民はいない。地下には石油、天然ガス、ウランなどの鉱物資源が眠り、近海には絶滅が危惧されるクロマグロの漁場がある。国連が1960年に西サハラを「非自治地域」に指定し、外国人による資源の採取や採掘は禁止された。

 非自治地域とは、領有権の定まらない地域のことだ。

 アフリカ連合(AU)や約50カ国が西サハラを国家承認している。が、米国や欧州連合(EU)、ロシア、日本は未承認だ。国連、AU、EUはモロッコの領有を認めていない。

 西サハラはかつて、スペインの植民地だった。スペインが撤退した現在、モロッコが西サハラの5分の4にあたる地域を占領している。西サハラ人は、モロッコの支配を逃れてアルジェリアにある難民キャンプに暮らす人々が約20万人、占領地に取り残された人々が約10万人。モロッコは入植者約15万人とモロッコ兵約16万人を占領地に送り込んでいる。

 祖国解放を目指す西サハラは、75年以来、モロッコと激しい戦闘を繰り広げてきた。91年、国連は紛争に終止符を打つため、独立か、モロッコへの帰属かを決める住民投票を提案する。モロッコ正規軍と西サハラ難民軍は提案を受け入れ、停戦した。

 ところが90年代半ば、西サハラの地下で鉱物資源が確認されると、モロッコは一転、住民投票を拒否して領有権の主張を始めた。以来、住民投票は行われず、難民が故郷に戻れるめども立っていない。

 私は92年から毎年のように西サハラ人の難民キャンプを訪れている。アルジェリアの首都アルジェから軍事基地のティンドゥーフに向けて飛行機で2時間半、飛行場から1時間ほど砂漠を走り、西サハラ難民行政センターに入る。さらに南下すると、砂漠の中に五つの西サハラ難民キャンプが点在している。

次のページ