「アベ政治を許さない」の揮毫は衝撃だった。集団的自衛権の行使を容認した、ということは米国の意向次第で戦争に引きずり込まれかねない“安全保障関連法案”の国会審議が続いていた2015年、これに反対するプラカードの言葉を、金子兜太(とうた)さんが毛筆で書いていた。
旧知の作家・澤地久枝さんの求めに応じた。とはいえ、俳句という伝統的な文芸の世界の重鎮が、かりそめにも時の総理大臣にそこまで言うか、と思った。しかも金子さんは、「許」の字を特に大きく力強く、首相の名字をカタカナで表記したのである。
これには頼んだ澤地さんも驚いた。「そこまではお願いしませんでしたから。あれは兜太さんの感性です。今のようなご時世にあって、それでもご自分を貫かれることは大変だったと思う」。だが金子さん本人は、報道陣に真意を問われても、「こんな政権に漢字はもったいない」と呵々大笑したものだ。
伊達や酔狂でできる業ではない。金子さんをしてそうさせたのは、五体から噴き出してくる危機感だった。
埼玉県は秩父で幼少期を過ごす。東京帝大経済学部を卒業し、日本銀行入行後、海軍主計中尉として赴任した西太平洋のトラック諸島(現・チューク諸島)で、彼は人間の修羅場に遭った。
空襲で基地機能を喪失した島々には、もはや米軍も侵攻してはこなかった。けれどもサイパン島からの補給を断たれて、食糧も武器弾薬もない。
飢えて死ぬ者、毒フグや野草、トカゲを食べて死ぬ者が続出した。金子さんはコウモリを食べて生き延びた。
現地の娘を暴行して報復される事件や、男色のもつれが殺し合いに発展する事件が相次いだ。試作された手榴弾の実験で軍属が爆死した。戦争は悪以外の何ものでもないと知った。
父親も俳人だった。旧制水戸高校(現・茨城大学)時代から俳句に本気で取り組み始めた金子さんは、東大時代にも戦争の、というより戦時下にある社会の非道を目の当たりにしていた。