哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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Whataboutismと呼ばれる論法が存在する。日本語で言うと「どの口が言うか」である。ソ連時代にプロパガンダとして頻用された。西側諸国がソ連国内の人権抑圧を非難すると「そっちだって奴隷制度があっただろう」と切り返して、批判を無効化しようとした。使い勝手がよく、論争的な人々はこの論法を偏愛する。ネット上の「論争」の過半はこのタイプの「まぜっかえし」である。
起源は古い。パリサイ派の人々がイエスを試そうとして姦淫(かんいん)の罪に問われた女について尋ねたことがあった。「律法はこのような女は石打ちの刑に処すように定めていますが、先生はどうお考えになりますか」。イエスは答えた。「あなたがたのうちで罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい」。すると、石を取る者は一人もいなかったと『ヨハネ福音書』にはある。「真に潔白な者だけが他人の非を咎(とが)めることができる」というルールを採択すれば、誰も他者の罪を問うことができなくなるということは古代から知られていた。
この論法の近代における白眉(はくび)はレーニンの『帝国主義論』である。そこでレーニンは「英国の労働者は英国帝国主義の植民地支配から受益しているので、真のプロレタリアではなく、『労働貴族』である」という主張を展開した。プロレタリアにも「ほんもの」と「にせもの」がおり、「にせものの被抑圧者」には階級闘争を担う(「石を投げる」)資格がないという論法は以後の左翼的な社会理論全般にゆきわたった。けれども、この論法を突き詰めると、最終的には、最も抑圧され、最も収奪され、すべての人権を剥奪(はくだつ)された「理想のプロレタリア/サバルタン」以外には人権について語る資格のある者はいないという潔癖主義的な極論に至る。
この論法の本質的な欠陥は、正義や人道について語る資格を厳密に限定すればするほど、正義や人道が棲息できる場所がこの世から失われてゆくという逆説にある。
「どの口が言うか」とお互いに相手の求める「きれいごと」を失効させてゆくうちに、世の中は不可避的により薄汚れたものになる。その予測に私は怯(おび)えるのだが、共感してくれる人はきわめて少ない。
※AERA 2018年1月22日号