


若手映画監督の登竜門として知られるぴあフィルムフェスティバル(PFF)が今年で40回を数える。映画祭の形式や会場、イベントの形は変化しつつも、一貫しているのはこの映画祭の主役がまだ無名の自主映画監督たちであることだ。
【写真】1990年にグランプリを獲ったのは、あの人気監督だった!
ぴあフィルムフェスティバルは1977年にスタートし、日本の映画祭文化を牽引してきた。近年は毎秋、東京国立近代美術館フィルムセンターで約2週間開かれるが、開催時期の都合で80年と98年に2回の中断をはさみ、今年で40回目となる。
PFFに入選したあと、映像の世界でプロとして活躍している監督は110人を超える。技術スタッフや配給会社にも人材が輩出し、PFF出身者は日本の映画界を支えている。
77年の「第1回ぴあ展」は、東映の大泉撮影所を2日間借り切り、映像、音楽、演劇を上演する文化祭的なイベントだった。映像部門は情報誌「ぴあ」で公募して集まった77本の自主映画作品からスタッフが選んだ12作品をオールナイトで上映。この映像部門が翌年から独立してPFFの原形となり、公募作品から入選作を決める部門は「アワード」と呼ばれ、PFFの中心であり続けている。92年からPFFディレクターとして映画祭を支える荒木啓子さんは語る。
「そもそもぴあ株式会社は中央大学の映画研究会の映画青年たちが中心となって創業した会社です。自主映画だってこんなに面白い作品がある、一般映画と同等の映画なんだと世に知らしめたい、PFFはそんな想いから始まりました。当時の男くさくて熱い自主映画の現場を今、リアルに想像することは難しいけど、とにかくみんな映画に飢えていた。この時代のPFFの会場にはものすごい長蛇の列ができたようです。黒沢清さんや塚本晋也さん、本当にいろんな監督が熱狂的に見に来ていたと、ご本人たちから聞きました」
70年代後半は8ミリ学生映画が一躍、世間の注目を集めた時代。映研は大学だけでなく高校や中学にもできて、犬童一心、手塚眞といった高校生監督も入選して注目された。
また、78年に入選した石井聰亙(現・岳龍)はその年に日活で商業映画デビュー。それまでの映画監督は、商業映画の助監督などの経験を積んでようやくなれるものだったが、新しい流れが始まっていた。森田芳光や長崎俊一など、PFFの入選監督たちも次々と商業映画で監督デビューを果たした。