「夢千代日記」などで知られる作家・脚本家の早坂暁さんが12月16日、亡くなった。戦争体験から反戦・反核を訴えた88歳の生涯。あの人との親交も厚かった。
若者でにぎわう東京・渋谷。スクランブル交差点からNHK放送センターに向かう途中に、早坂暁さんが暮らしていたホテルがある。フロントで「来訪」を告げると、やがてエレベーターの扉が開いて早坂さんが降りてきた。なぜホテル暮らしなのか理由を尋ねると、「ハハハ、彼と同じですよ」。照れくさそうに笑っていた。
「彼」とは1996年8月に68歳で亡くなった俳優の渥美清さんである。28年生まれの渥美さんに対し、早坂さんは翌29年の生まれ。戦後浅草で出会ったころから2人は兄弟のように親しく、何度も一緒に旅行に行った。
「渥美ちゃんも碑文谷(ひもんや、東京都目黒区)の自宅のほかに仕事部屋を持っていた。そこで本名・田所康雄(たどころやすお)から渥美清に変身するのです。僕(富田祥資(とみたよしすけ))も似たようなものだね」
遅筆で知られ、「遅坂さん」と呼ばれることもあった。締め切り前で担当者が待っていてもホテルをこっそりと抜け出し、遊びに出かけてしまうが出来上がった原稿は朱の入れどころがないほど完璧な仕上がり。優しくユーモアにあふれたチャーミングな性格で、男女を問わず愛され、「早坂節」といわれるほど話が抜群に上手かった。働き盛りの50代のとき胃潰瘍で胃を切除した直後に心筋梗塞を患い、続いて末期がんの宣告。手術したところ、がんは誤診だった。
「奈落の底に落ちたあの体験が僕の人生観を変えたんです」
愛媛県松山市生まれ。芝居小屋を所有する裕福な商家で育った。海軍兵学校時代に終戦を迎え、山口から帰郷。途中、原爆投下後の広島の惨状を目撃する。妹も被爆死した。
「地球の滅亡と思った。物書きになって考えたのは、あの原爆のむごたらしさをどう伝えるかだった」
最も好きだった自作の句は
「生きたくば蝉のよに鳴け八月は」