論文にはほとんど出てこないが、例えばワイスとドレーバーには確執があった。ドレーバーは、自分の直感に従い、マイペースで仕事をする。鏡の間の光の往復を何百回もの回数にして、4キロの装置の“腕”を実質的に1千キロ超にしたり、レーザー光安定技術を実現したりと、彼は決定的な改良を次々と成し遂げる。だがワイスら他の研究者の意見には耳を貸さず、両者のコミュニケーションは悪かった。
軋轢が露呈したのは、「トロイカ体制」から責任者を一人定める「統括責任者体制」に移った87年以降だ。惑星探査衛星ミッション経験を見込まれ、LIGO初代統括責任者となったのは元カルテク幹部のロフス・ヴォート。2年後、NSFに計画書を提出し、政治的駆け引きも厭わずに2億ドルの予算を引き出した。これが92年のプロジェクト承認につながったのだ。その一方で熱心に組織の合理的改革をする中、マイペースのドレーバーと衝突。92年にはドレーバーとLIGOの関係を切るなど徹底した。その結果、研究チームは混乱し、活動は停止。94年、ヴォートは任を解かれた。