ソーンの懇願で79年にグラスゴーからカルテクへ移ったドレーバーは、少ない予算と人員でも巧みな実験装置を作り、驚くべき成果を出すことで知られた。重力波実験の準備を始めたドレーバーはこの時より英米を往復する日々となった。間もなくカルテクにできた40メートル規模の干渉計は、本番前の練習台だった。

 功績が大きいドレーバーだが、ノーベル賞の発表を待たず、今年3月に亡くなった。その死に際してソーンは「ロンは私の知るうちで最も発明の才のある科学者だ。分析よりも直感。私が数学的計算を駆使してわかるのに何時間もかかるようなことが直感的に、すぐにわかる人だった」と振り返っている。

 ビッグプロジェクトに必要な資金のため、83年、ワイスは400ページを超えるレポート「ブルーブック」を全米科学財団(NSF)に提出。翌84年、ワイスのMITグループとソーン、ドレーバーのカルテクグループは、合同でLIGOプロジェクトを進めることを決める。だがこの「トロイカ体制」は苦難の道のりだった。

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