経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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「あの時、あんた『◯◯』って言ったよね」と言われて、「そんなこと言ったっけ。覚えてないなぁ」と返しつつ、でも、やっぱり言ったかもしれないと思う。これは誰にでもあることだ。これが普通の感性だろう。
だが、加計学園問題等に関する国会閉会中審査には、かなり感性が違う人々が出てきた。「そうした記憶はまったく残っていない。従って、言っていない」。首相補佐官の和泉洋人氏がそう答弁していた。
これは凄い。言ってない。だから記憶にない。これならわかる。だが、だからといって逆も真なりということにはならない。
ここで、ポスト・トゥルース(post-truth)という言葉に思いがおよぶ。オックスフォード英語辞典がこれを2016年のイメージ用語に選んだ。
ポスト・トゥルースを邦訳すれば、「脱真実」あるいは「超真実」という感じになる。「ポスト・ホント」の世界の住人は、真実を超越しているのである。真実を超越してしまえば何とでもなる。記憶にないことは、言っていないことにできてしまうのだ。
もし、記憶にないことが記録にあったらどうするか。それでも平気。だって、その記録はフェイク(fake=偽物)だもん。だって、僕ちゃん、代替事実すなわち「オルタナティブ・ファクト」(alternative fact)を示すことができるもん。
ポスト・ホント国は、ご都合主義者の駆け込み寺だ。そこに逃げ込んでしまえば、ひたすら手前勝手なファンタジーに浸り続けることができる。
さて、そこで思う。ポピュリズムとポスト・ホントが出合う時、その十字路に出現するものは何か。ただし、ここで言うポピュリズムは近頃はやりの偽ポピュリズム。人心扇動家たちがやることだ。人民主義を意味する本来のポピュリズムではない。
古来、十字路は怖い。ホラー話がお好きな向きはよくご存じの通り、十字路は魑魅魍魎の集合場所だ。間違っても、十字路に立って願い事などをしてはいけない。悪魔が願いをかなえてくれてしまうかもしれない。
誰かがそれをやったのか。だから今、あんな国会答弁をする人々や、ドナルド・トランプの出現に見舞われているのか。
※AERA 2017年8月7日号