将棋界はイメージアップのため、先輩たちが八百長で、藤井少年に勝たせているのではないか」

 将棋界の外からはそんな口さがない声を耳にすることもあった。しかしこの業界に限っては、そうした発想はどこの誰からも生まれない。それは藤井の29連勝中の棋譜を見ても明らかだ。新人相手に楽に勝たれては自らの沽券に関わる。先輩棋士の誰もが全力で藤井を負かしに行って、この結果である。

 長年のスポンサーであり、パートナーである新聞だけでなく、テレビや雑誌、ネットなどでも、藤井の話題が取り上げられない日はない。将棋教室に子どもや女性が集まり、関連グッズが飛ぶように売れる。将棋界が構造的に抱えている危うい事情は、根本的には、全ては解消していない。それでも将棋界は斜陽産業どころか、現代を代表する、花形業界のようにも見え始めた。

 コンピューターが強くなれば、棋士の存在意義がなくなるのではないか、という疑問に対して、藤井の登場が一つの回答となった。つまり、棋士は尊敬され続け、若き天才は称賛され続ける、ということがわかった。そして盤上に目を向ければ、改めてこのゲームは、たとえようもないほどに面白い。

 藤井は初の敗北から4日後の7月6日、C級2組順位戦の対局に臨んだ。対戦相手はベテランの中田功七段。将棋界の根幹をなす順位戦では、藤井はまだ最下位のクラスに入ったばかりだ。名人挑戦権を争うことができる、4ランク上のA級に到達するまでには、1年に1期おこなわれる順位戦で、各級の上位者となって昇級を重ねていかなければならず、最低でも4年はかかる。その間、着実に勝利を積み重ねていく他にない。

 対局室に詰めかけた報道陣の数は、少し減ったとはいえ、依然多い。藤井四段は中田七段の職人技ともいえる巧妙な指し回しに、一時は苦戦に陥った。しかし激闘の末に、最後は藤井が勝利。デビュー以来の成績は、これで30勝1敗となった。

 終局後のインタビューで、あるテレビ局の記者が「聡太くん」と呼びかけて、ファンの間では「失礼ではないか」と波紋を呼んだ。藤井はまだ中3だが、将棋界では「藤井先生」と呼ばれる存在だ。それでも、もし近い将来、国民的なアイドルとなった際には、「聡太くん」とも呼ばれるのだろうか。

 29連勝中の藤井の対局は、ほとんどが、予選段階のものだ。伝説はまだまだ、序章に過ぎない。佐藤天彦名人、渡辺明竜王、羽生善治三冠らを相手に、藤井がタイトル戦の番勝負に登場した際には、どれほどのフィーバーが起こるのか。そして将棋界は、どのような状況を迎えているのか。それはまだ誰にも、もちろんAIにも、予測はできないだろう。(文中敬称略)

(将棋ライター・松本博文)

AERA 2017年7月24日号

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松本博文

松本博文

フリーの将棋ライター。東京大学将棋部OB。主な著書に『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)など。

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