文化を発信する力があるかどうかは、その街の底力にかかわる。地震に見舞われた熊本には、同時代の文学の「磁場」がある。
4月の熊本地震で傷を負いながら、熊本城は悠と立つ。
10月、そのふもとの古びたビルに、中心部の繁華街から小さな書店兼喫茶店が移転してきた。元の店で使っていた木材を内装に生かし、大学の備品だった木製の椅子や机がぬくもりを放つ。開店したばかりなのに、長くここで営業していたかのようだ。
橙(だいだい)書店というその店は、取次会社を通さず店主の田尻久子さん(47)が選んだ本だけを並べるというやり方を通している。その大半は、田尻さんが出版社から直接買い取る。大型書店やコンビニで売られている雑誌や自己啓発本は見当たらない代わりに、大切な誰かに本を贈りたいときに相談すると、とびきりの本を選んでくれる。
町の小さな書店で本を買うのが楽しみだった本好きの少女が大人になり、経営する喫茶店の隣が空くと、突然書店も始めてしまった。8年前のことだ。
●東京からも作家が集結
作家の坂口恭平さんは、10月26日に発売した小説『現実宿り』を橙書店の片隅で書いた。
坂口さんは、東日本大震災を機にふるさとの熊本に移り住んだ。毎朝、店が開く11時半に来店すると、定位置に座り、原稿用紙10枚。書きあげると、あるいは、書いている途中に、カウンターの中で立ち働く田尻さんの傍に行き、原稿を朗読する。自身の躁鬱(そううつ)の症状とつき合いながら表現活動をする坂口さんは、鬱状態が重たくなると、家で書いて田尻さんにメールする。
「自分ではこんなつまらないものと思うものでも、彼女がおもしろいと言ってくれる。苦しい時に書いているもののおもしろさを認めてくれた。鬱はダメなんじゃない、それもいいと思えるようになったんですよね」
田尻さんと橙書店に引き寄せられた作家は坂口さんだけではない。谷川俊太郎、村上春樹、池澤夏樹、伊藤比呂美、柴田元幸、雑誌「SWITCH」の新井敏記編集長といった、東京で活字表現の前線に立つ人たちが、橙書店で朗読会やトークセッションを開く。わずか数十人に向けて喜々として、自らの作品を朗読し、語り合う。