「ヘリポート」が「新基地」へ──。国と沖縄県の裁判闘争が再燃している米軍普天間飛行場の辺野古移設問題。返還交渉の当事者だった元防衛事務次官が核心を明かす。
1995年に起きた米兵による少女暴行事件で噴出した沖縄の憤りを鎮めるため、橋本龍太郎首相とモンデール駐日米大使は96年4月、普天間飛行場の返還合意を電撃的に発表した。
──日米が普天間返還に合意した際、普天間の機能は米本土や岩国(山口県)への分散と、沖縄の既存の基地内にヘリポートなどを追加的に整備することで維持するとされていました。現在の辺野古への新基地建設(※注1)とはおよそ異なるものです。
秋山昌広(以下、秋山):返還合意発表後、米軍の在沖縄基地内への移転ということだったので、一生懸命に場所探しを始めました。ヘリポートとはいえ軍のヘリは滑空して飛ぶので、ある程度の滑走路は必要になります。日本側から提案した案の一つは、700~800メートルの滑走路でした。沖縄の既存米軍施設である嘉手納基地のほか、嘉手納弾薬庫近くやキャンプ・シュワブ内では700メートルぐらいのヘリポートなら収まるだろうと考えました。
──防衛庁(当時)を中心に日本側でそのような検討を進めていた最中の96年9月、突然海上基地という案が浮上します。秋山さん(当時防衛局長)ら防衛庁や外務省にとっても唐突でしたが、橋本首相はこれに乗りますね。
秋山:嘉手納基地への統合に全精力を注いでいたところに、ポンと海上施設という話が飛び込んできて、それまでの作業がいっぺんにひっくり返りました。海上施設が急に出てきた背景はよく分かりません。これに呼応する形で、日米の造船業界や海洋土木業者が活発に動き始め、実際に色々な案を防衛庁の私のところにも持ち込んできました。橋本さんがなぜこれに関心を持ったかは知りません。
──橋本首相にとって普天間返還合意は、県内での代替施設確保について、地元の理解と協力を得られるか不透明な「賭け」でした。返還を当時の大田昌秀知事に伝える際も、突然電話で合意を告げ、勢いで協力を取り付けようと試みました。撤去可能な海上施設は、沖縄に基地を新設せずに本来の意味での「返還」にこぎ着ける妙手に見えたのではないでしょうか。当初のヘリポートについても、「撤去可能」にこだわっていたようですが。
秋山:確かに、橋本首相は普天間の代替施設について、口癖のように「撤去可能、撤去可能」とおっしゃっていました。