●60年代に青写真?
普天間代替施設は96年12月のSACO(日米特別行動委員会)最終報告で、「海上施設」とすることが明記され、全長1500メートル(滑走路1300メートル)の施設を、「沖縄本島の東海岸沖に建設」することが盛り込まれた。
──海上施設はその後、埋め立てによって造ることになりますが、米側には60年代に辺野古を大規模に埋め立て、普天間の機能に港湾設備も備えた新基地を建設する計画(※注2)があったことが知られています。
秋山:いつだったか忘れましたが、SACO最終報告に基づき、普天間飛行場の返還に伴う代替施設に関する日米共同の作業班である「FIG」(普天間実施委員会)の場で、米側が60年代の計画を「これでどうだ」と非公式に提示してきたことがあります。「こんなもの持ち込んできましたよ」と報告する部下に、私は「こりゃ駄目だ」と言って、はねつけました。
──秋山さんは米側が「およそ現実的でない案を持ち込んできて、実際の検討が進まない状況が続いた」と回顧(秋山氏著『日米の戦略対話が始まった』亜紀書房、2002年)しておられますが、結果としてそれと近いものが「現行案」になりました。
秋山:結果論ですが、あとから振り返ってみると、やっぱり海兵隊はかなり大きな空港を造りたいという希望は持っていたんだと思いますね。埋め立ては、沖縄側から出た案だと思いますが。
──順番から言うと、普天間飛行場返還がきっかけになって、もともと海兵隊が考えていた青写真が出てきたということでしょうか。
秋山:普天間飛行場返還に伴う代替施設は、96年4月のSACO中間報告では沖縄の既存の米軍基地内に、ということでした。それが最終報告で海上施設になった。
海兵隊は60年代の計画を実現させるチャンスと捉えて、埋め立ても含め十分大きな施設に持ち込みたいと考えたのではないでしょうか。そもそも米政府は、海兵隊の了解を十分に取り付けないまま、橋本首相との返還合意に踏み切ったように見えます。
●「領海外」を模索
09年9月、普天間の移設先について「最低でも県外」を掲げる鳩山政権が発足。秋山氏は10年に普天間の代替施設として、沖縄近海の領海外に浮体式の海上施設を設置する打開策を提起したという。