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 M.J.Q.(モダン・ジャズ・カルテット)の起源をたどるとなんと1951年。アート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズと前後して1961年に初来日している。「日本のジャズの夜明け」と言われたこの年、ジャズ・ブームに火を付けたのはこの二つのグループだったのか・・・。(ボクはまだ10歳だったから覚えていないけれど。もし、カメラマンになっていたなら、ずいぶんと忙しい子供だったことだろう。)

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 ディジー・ガレスピー楽団にいたミルト・ジャクソン、ジョン・ルイスを含む4人のリズム・セクションによって結成されたとある。(ボクはまだ赤ちゃんだったから知らなかった。)ドラムがコニー・ケイに交代して一時期数年にわたる解散状態はあったけれど、M.J.Q.不動のメンバーとなった訳だ。

 ボクが大人になり、カメラマンになって、ジャズを撮り始め、初めてM.J.Q.を撮ったのは1981年。7年間に及ぶ解散状態から再び編成され再活動を開始してさっそく日本公演が実現したのだった。

 ホーン・セクションがないバンド、特にピアノ・ソロやヴァイブ+ベースだけなど、音量の少ないバンドのライヴを撮影する時は大変に気を遣う。シャッター音で演奏者や聴衆に迷惑をかけるからだ。

 音数の少ないジョン・ルイスのピアノ・スタイルに加えて、非常に繊細な音を紡ぎ出すミルトのヴァイブ。これまた静かにリズムをキープするベース、そしてドラム。M.J.Q.の撮影は撮影技術以前の問題で、たいそう難しい。

 モーターでフィルムを巻き上げるタイプのカメラはまず使えないから、消音ケースを用意してM.J.Q.のコンサートに臨んだ。ひと抱えもあるようなカメラ入り消音箱で狙われていることに気付いたミルトは、演奏の合間に、そこまでして撮るかと言いたげなあきれ顔で笑っていた。動作音の小さいライカで撮影した時でさえ、いぶかしげに睨みつけられたことがあったからだ。

 M.J.Q.の魅力をたっぷり聴けるこのコンサートのライヴ盤「M.J.Q.リユニオン at 武道館1981」のカバーにはボクの写真が使われており、映像を収めたレーザー・ディスク「アゲイン」のカバーはボクがセッティングした背景やライティングを、厚かましくも阿部克自カメラマンが使って撮ったもの。いえいえ喜んでお使いいただきましたよ(大先輩だから文句は言いません)。

 日本のジャズの夜明けも大変な年だったらしいけれど、この年1981年は、6年間の沈黙を破ってあのマイルス・デイビスが復活した年でもあり、来日はどちらも10月。ジャズ・カメラマン内山 繁はたいそう忙しい思いをした年になった。

 ミルト・ジャクソンはM.J.Q.の顔であり、音である。

 M.J.Q.を休止していた時期も、ミルトは自己の活動を続けておりレイ・ブラウン等とたびたび来日している。

 ソウルを歌うような(実際ブルージーなボーカルもたびたび披露してくれました。)フィーリングで、ジャズの中では数少ないヴァイブと言う楽器の魅力と存在感を大いに高め「ヴァイブの神様」「ヴィブラフォンの魔術師」と言われたモダン・ジャズ・ヴァイブのワン・アンド・オンリー:ミルト・ジャクソン。

 ドラムがコニー・ケイに交代するという、たった一度のメンバー・チェンジがあっただけで、ブランクはあるけれど、40年以上にわたって活動を続けたジャズ史上屈指の名コンボM.J.Q.。

 1994年にコニー・ケイを失った時、ドラムに代役を立てて追悼コンサートが行われた記憶はあるけれど、この時点でもうM.J.Q.は存在し得なくなっていた。1999年にミルト、2001年にジョン・ルイスを、そして2005年遂に最後のひとりパーシー・ヒースが他界してM.J.Q.は完全に消滅してしまった。

ミルト・ジャクソン:Milt Jackson (allmusic.comへリンクします)
→ジャズビブラフォン奏者/1923年1月1日~1999年10月9日

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