少子高齢化や停滞の続く経済状況を受けて、「ドメスティック」なままでいられる日本企業は少ない。そこで働く個人も、本人が望むと望まざるとにかかわらず、世界に打って出なければ生き残れなくなっている。話せるのは日本語だけ、暮らしたことがある国も日本だけで、世界の国々の歴史はもちろんカルチャーもビジネス習慣も知らない、という多くの人々は、どうやって世界で戦う術を身につけ「グローバル人材」に変身したのか。
安田栄一さん(35)は、従業員20人のスポーツ用品メーカー・安田工業所の社員だ。本社は大阪市生野区。年に6回以上は生産委託先の中国・深圳(シンセン)や香港、台湾の工場に足を運ぶ。祖父が終戦直後に創業したこの会社に安田さんは2年半前、全国紙の記者を辞めて入社した。
「海外で働くなんて大手の商社やメーカーの人の話だと思ってました。まさか自分が国際ビジネスの現場に立つとは考えもしませんでしたよ」(安田さん)
安田さんが今の会社に入社した当時、英語は時折の海外旅行で使う程度。複雑なことを言おうとすると、途端にしどろもどろになるレベルだった。この貧弱な英語力が、最初にして最大の壁になった。
「『もう少し青みがかった黄色』って言いたいんやけどな」「『濃く』はストロング? いやダークかな?」
互いに母国語ではない英語を使った、中国人とのやりとり。色や素材の硬さなどのニュアンスを伝えるために試行錯誤が続いた。日本語なら、二言三言で済むはずなのに。
商習慣の壁にもぶつかった。サンプルを見て「もう少し色を薄く」と頼めば、日本の工場なら薄さの度合いが違う複数のパターンを用意してくれる。あとはそこから意中の色を選べばいい。だが、そんな「あうんの呼吸」は通じない。中国の工場は極端に薄くしたものを一つ作っておしまいだ。ダメ出しを繰り返し、最終的に色が決まるまでに1カ月かかったこともある。
言葉や商習慣以外にもう一つ、やっかいな壁があった。飛び交う情報や先入観で無意識のうちに築かれた、「心の壁」だ。