今年の2月に、ラグという京都のライブハウスから、ステージ出演の話をいただいた。
1年ぶりですし、またリサイタルをやりませんか、と。ありがたいことである。よくぞ私のような素人に声をかけて下さると、心の底からそう思う。
だが、その時は、おひきうけすることができなかった。せっかくのご注文を、ことわっている。
肘のぐあいがあいかわらず悪かったからである。いわゆるテニス肘で私は前年から肘をいためていた。医者からも、ピアノの練習はひかえるよう、つげられている。そして、おおよそ8ヶ月ほど私は鍵盤にふれてこなかった。
もちろん、腕もおちている。とても、人様の前にだせる状態ではない。もうしばらく休みをいただいて、肘が回復してから練習は再開する。それまで、ステージはかんべんしてくださいと、私はこたえている。
そうですか、それはざんねんですね。では、おだいじにということで、とりあえず、この話はながれている。
だが、5月にはいって、また連絡をいただいた。その後、肘の様子はどうですか。ぐあいはよくなりましたか。6月の某日と某日、そして某日は、まだスケジュールがあいていますが、どうですか。ステージに、そろそろもどってみませんかというわけだ。
正直に言えば、肘はあいかわらずいたむ。
けっして調子が良いとは、言えない。練習にも、とりかかってはいなかった。
しかし、今回のお申し出は、けっきょくお受けするにいたっている。一度おことわりしたのに、かさねて声をかけてくれたことは、やはりうれしかった。また、私なりに考え方をあらためたところもある。
肘がいたく、ろくに練習もできていない状態で、人様に聴いてもらうのは心苦しい。さきほどは、当初の拒否理由を、そう書いた。しかし、どうだろう。私がたっぷり練習すれば、人に聴いてもらえる音楽が、ととのえられるのだろうか。
どうせ、素人芸の未熟な音にしか、ならないのである。それは、練習をしようがしまいが、たいしてかわらない。どっちみち、下手なのだ。
練習ができないから、人前にはでられない。この考え方には、傲慢なところがある。練習さえすれば、ひとかどのステージたりうるはずだという増長ぶりが、うかがえる。それはそれで、思い上がっているのでは、私は考えだしたのである。
こうして、つぎのライブスケジュールが、決定した。昨年と同じラブで、約2時間ピアノへむかうことになる。6月9日(水)の6時開場。7時半開演という段階になっている。そう。けっきょくは、のこのことでることになったのである。
ただ、ピアノの練習が思うにまかせないという状態じたいは、改善されていない。肘も、あいかわらずいたむ。ハードなトレーニングにたえられるとは、思えない。
では、どうすればいいのか。
もう、これしか手はない。
スロー・バラードである。
これなら、あまり事前の練習はいらない。また肘にかかる負担もしれている。妙なアドリブ、インプロヴゼーションには、おもむくまい。恋の歌を、ピアノで甘く,せつなく、けだるくかなでる。カクテル、ピアノ、ラウンジ、ピアノの途ががある。6月9日は、これでのりきろうと、そう、決断した。
もともと、女の人にもてたくてはじめたピアノである。老後はナイトクラブのおじいちゃんピアニスト。ホステスさんを相手にした人生相談で、余生はすごそう。これが、私の初心であった。そのために、ピアノへはとりくんできたのである。
だが、ラグのようなジャズ系の店から声がかかり、この初心を見失ってしまった。ジャズのアドリブに力を入れ、けっきょくは聴き苦しい音をだしている。身分不相応なジャズ心をいだいてしまい、観衆にめいわくをかけた。
お客様がもとめているのは、中途半端なアドリブではない。歌心だ。私は自分にそう言い聞かせ、きたるべきステージへいどむことにしたのである。
できもしない、四回転ジャンプなんかは、やめておこう。それよりは、ゆったりしたイナバウアーだ。いささかな古い比喩だが、私はそう心にきめたのである。
しかし、そう書きながらも、私は知っている。私の素人芸にきてくれるお客様が、何をもとめているのかを。けっきょく、よろこばれているのは、ピアノの合間をうめる語り、小咄の滑稽本であることを。
バラードの練習をしつつ、私はトークのはこびにも趣向をこらしだしている。せつないかぎりである。