●翻訳が切望されるジャズ・ロック・ヒストリーの決定版
1969年8月18日、午前8時。ジミ・ヘンドリクスは《星条旗よ永遠なれ》を暴力的にデフォルメし、ウッドストック・フェスティヴァルをしめくくった。それは、まさにウッドストックの祭典と、そのドキュメンタリー映画を象徴するクライマックスだった。
ヴェトナム戦争とブラック・パワーの台頭を背景とする社会的文化的な動乱期に、ヘンドリクスがくり広げた“神業”ともいえる演奏は、いまなおロックにおける画期的なパフォーマンスのひとつに数えられる。
その3日後、ニューヨークではマイルス・デイヴィスがスタジオに入り、『ビッチェズ・ブリュー』のレコーディングに着手した。それは、ジャズ界にジミ・ヘンドリクスのウッドストックにおけるパフォーマンスと同様の反響を巻き起こすことになる。
『ビッチェズ・ブリュー』のライナーノーツを執筆した音楽評論家ラルフ・J・グリースン(初のロック雑誌「ローリング・ストーン」創刊の中心人物)は、それを“エレクトリック・ミュージック”と称した。だがそれは、マイルスがヘンドリクスの影響を受けつつ、エレクトロニクスの渦巻く心象風景のなかへと新たな探求の第一歩を踏み出した“エレクトリック・ミュージック”だった。
マイルスは、心中で交錯するクライヴ・デイヴィス(CBSレコード社長:当時)のプレッシャーと自分自身のプライドに駆られて、『ビッチェズ・ブリュー』をレコーディングした。マイルスの言葉を借りれば、「クライヴは俺の稼ぎが足りないと思っていたんだ」というプレッシャーと、「まさか自分が過去形で語られるとは思わなかったぜ」というプライドである。
マイルスは従来、ジャズ・シーンを先導し、実際に新たな方向性を示してきた。したがって、1970年の春に『ビッチェズ・ブリュー』がリリースされるなり、それはあきらかな“兆し”となった。すなわちマイルスが発したことにより、ジャズ・ロックこそが次の進むべき方向であることが示唆された。
すくなくとも『ビッチェズ・ブリュー』以前の2年間に、ジャズ・ロック・ムーヴメントの胎動はみられた。だがジャズ・ロックというスタイルは、新時代の幕開きを宣言するに足る才能を欠いていた。
そして、キング・オリヴァー、ルイ・アームストロング、ベニー・グッドマン、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーン、オーネット・コールマンらがジャズ史における特有の分野を代表したように、マイルス・デイヴィスが、ジャズ・ロックとフュージョンの時代を宣言する。
(『ジャズ・ロック:ア・ヒストリー』より抜粋)