『ジャズ・オン・ザ・バーバリー・コースト』トム・ストッダード著
『ジャズ・オン・ザ・バーバリー・コースト』トム・ストッダード著
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●本書について

 サンフランシスコの悪名高いバーバリー・コーストは、1900年代初期、アメリカにおけるジャズのメッカに数えられた。
本書『ジャズ・オン・ザ・バーバリー・コースト』は、この時代の黒人ジャズ・シーンの途方もないエネルギーを、その中心にいた男たちの肉声を通して捉える。

 シド・レプロッティ、レブ・スパイクス、ウェズリー・フィールズ、アルフレッド・レヴィ、チャーリー・"デューク"・ターナーといったジャズの先人の回想は、サンフランシスコの音楽シーンを特徴づけ、次世代のミュージシャンを鼓舞した、当時のナイトクラブやダンス、あるいは対抗意識や無法ぶりを彷彿させる。

●あの電灯のきらめき:シド・レプロッティ(本文より抜粋)

 バーバリー・コーストは、跡形もなく消えてしまった。だが、ひとつよかったことがある。それは、私を道連れにしなかったことだ。私は、1906年から1921年まで、つまり営業停止になるまで、バーバリー・コーストで演奏していた。当時のミュージシャンや音楽、周りにいたいろんな連中や見聞きした諸々の話を少ししたいと思う。

 当時は、離れ業をみせるミュージシャンが何人もいた。たとえば、私のバンドのトロンボーン奏者ラス・モーガンは、16音のリックを完璧に吹けた。ウィル・ジョンソンのニュー・オリンズ・ジャズ・バンドは、はるばるバーバリーにやってきた。ミスター・ジェリー・ロードことジェリー・ロール・モートン(ピアノ)は、忘れられない人物だ。それに、キング・オリヴァー(コルネット)と彼のバンドもやってきた。彼のバンドのベーシストは、演奏中に噛みタバコのようなものを噛んでは、壁のあちこちに吐き捨てて帰った。だから、私は以後、キング・オリヴァーと彼の"タバコ・チューイン・ウォール・スピティン・バンド"と呼んでいた。私のバンド、ソー・ディファレント・ジャズ・バンドは有名な「パーセルズ」に出演し、名が通っていた。

 他にも、ギャンブラー、美人ぞろいのダンサーや売春婦、麻薬中毒、今で言うアヘン中毒になった連中が、大勢暮らしていた。キャットフィッシュという名のギャンブラーが、嫌がらせに逆上し、相手の耳から耳を一文字に掻き切った殺人事件もあった。

 バーバリー・コーストは、「パーセルズ」で名を馳せていた。「パーセルズ」は、プルマンカーのポーターをしていた2人の黒人ルー・パーセルとサム・キングが開業した。この国でもっとも有名な黒人のダンス・ホールのひとつで、パシフィック・ストリート520番地にあった。最初は、ブロードウェイで営業していたが、1906年の火事の後、パシフィック・ストリートに引っ越していた。

 パシフィック・ストリートは、バーバリー・コーストの目抜き通りで、テリフィック・ストリートと呼ばれていた。今でも目に浮かぶのが、パシフィック・ストリートのあの電灯のきらめきだ。連絡船に乗ってサンフランシスコ湾を渡る時、パシフィック・ストリートにきらめく電灯の光は、遠目にも見分けることができた。ネオンのない時代だった。だが、無数の電灯が燦然と輝いていた。(中山啓子)