「本屋でオウムの本を見た。俺にはあれだ」
と話した。この時期からオウムのヨガ道場に通い、麻原の説法テープをすべて購入するほど熱中した。
89年、出家を理由に退職。上司に教団の書籍を渡し、
「読んで勉強してください」
「私は(教団内で)偉くなりたい。それには土、日だけの修行では足りない」
と主張。家族には反対されたが、「人類を救うため」に振り切った。
教団では科学技術省に所属し、機械班の仕事を任された。仲間との会話は「ワーク」についてのみで、自室にこもって睡眠も忘れるほど作業に没頭し、布教活動用のロボットやホーバークラフトを作った。自動小銃の製造でも、電機メーカーの生産技術課で身につけたノウハウを生かし、中心的な役割を担った。
だが、周りのことには無頓着で、逮捕されるまで松本サリン事件があったことさえ知らなかったという。
地下鉄サリン事件では、丸ノ内線の四ツ谷駅でサリンをまいたが、この車両からは死者が出なかった。95年5月16日、麻原とともに上九一色村の教団施設で逮捕された。
裁判では地下鉄サリン事件実行犯の中で、ただ一人詳細な証言を拒否。裁判のごく初期を除き、弁護人や検事の質問に下を向いたままひたすら無言を貫いた。
死刑を求刑された後の最終弁論でようやく、
「犯した罪を逃れようとは全く考えていません。刑罰を受け入れる覚悟はできています」
と、メモを読みながら消え入るような声で語った。07年7月、死刑が確定した。
※週刊朝日 臨時増刊「オウム全記録」(2012年7月15日号)