ハービー・ニコルス『ザ・プロフェティックvol.1』
ハービー・ニコルス『ザ・プロフェティックvol.1』
ハービー・ニコルス『ザ・プロフェティックvol.2』
ハービー・ニコルス『ザ・プロフェティックvol.2』
エルモ・ホープ『トリオ&クインテット』
エルモ・ホープ『トリオ&クインテット』

●初めての歯医者

 1983年夏、私は虫歯になりました。

 それまで本当に気をつけていたのです。もともと甘いものが得意でないせいか、歯磨きが好きだったためか幼児の頃から歯医者にかかったことはありませんでした。乳歯から永久歯への移り変わりも大過なくおこなわれました(抜けた歯を屋根の向こうに放り投げた記憶があります)。

 今風のことばでいえば、子供時代の私は「健康マニア」でした。といっても、別に血糖値だのコレステロールだのにこだわっていたわけではありません。

 単純に、医者が怖かった。見ず知らずのオッチャンに、自分の体を触られたくなかった。あの高い、回転する椅子に座らされると思うだけで、悪夢でした。だから医者の介在する余地がないように、毎日をバリバリ元気に過ごそうと思っていたのです。

 歯医者ならなおさらです。大口を開けさせられるだけならまだしも、そこにドリルや細くて先の尖った器具が入って、中の歯をチュイーンと削るのです。その間にも唾液は次から次へと溢れてきます。かっこわりい。子供なりに持っていた、ほんのちっぽけな自負心はズタズタです。

 ですが、歯の痛み、これは耐え難いものでもあります。どんなヤブ医者でもいいからこの痛みを取り除いてくれ、と、何度思ったことでしょう。

 もうごまかしようがないほどの痛みに達したとき、私はついに歯医者に行く決心をしました。そして親に言いました。「できるだけ痛くしない歯医者がいい」。

 親がいうには、買物公園(旭川で唯一の繁華街。東京なら銀座に相当する)に腕のいい歯科があり、自分もそこにかかったことがあるのだが、さほど痛みを感じなかった。そこに行ったらいいのではないか、ということでした。

●いま思い出してもヨダレもの、キングレコードの廉価盤シリーズ

 次の日から、私は毎日のように買物公園に通いました。学生服を着て、カバンを持ったままバスで歯医者へ直行です。もう細かいことは忘れてしまいましたが、一本も抜かずに済んだのは幸運でした。

 そそくさと歯科を出ると、目の前に大きな舗装道路があります。そこを渡って次のブロックに出ると、国原というレコード店が、まるで「立ち寄ってくれ」といわんばかりにありました。

 私の目当ては「キング最後の名盤1800円シリーズ」です。

 これについては若干の説明が必要かもしれません。1977年から83年夏まで、ブルーノート、パシフィック・ジャズ、ユナイテッド・アーティスツ等のレーベルはキングレコードから国内盤が発売されていました。契約満了前の叩き売りというわけではないでしょうが、83年に入ると同社は月10~20枚ぐらいのペースで、それまで日本プレスされていなかったレア音源を怒涛のようにリリースし始めました。たしか各3000枚限定だったように思います。帯の裏には「コレクターズ価格 50000円」など、ようするに、そのレコードをオリジナル盤で入手したらどのくらいの金額になるのかまでご丁寧に記されていました。なにしろ完全限定発売なので、旭川のレコード店に入ってきたのはごく少数であったと記憶していますが、それでも私は毎月、お金をやりくりしてその中から買い、何度も何度も楽しんだものです。

 83年7月の「キング最後の名盤1800円シリーズ」は、「10インチLP2枚を各面にカップリングした12インチLP特集」でした。つまり1800円で10インチ2枚分の音が聴けるわけです。アコースティックなジャズに飢えていた私(当時はフュージョン全盛の時代です)はレコード店のジャズ・コーナーで何度もジャケットを引っ張り出しては戻しながら、ついに2枚のアルバムをレジに運びました。それがハービー・ニコルスの『ザ・プロフェティックvol.1&vol.2』と、エルモ・ホープの『トリオ&クインテット』です。

 ちょっとしたジャズ・ファンから「なんと渋いものを」あるいは「中学生にそんな通好みの音がわかるのか」という声が飛んできそうですが、私とて当時からニコルスやホープのことを知っていたわけではありません。

 では、なぜ購入したのかというと、これはもう簡単、ジャケットに惹かれたのです。

●「芸術は爆発だ」と、「エンジニアの愛犬」

 ニコルスのレコードにイラストを寄せたのはギル・メレ(サックス奏者としても知られています)なのですが、ぼくにはなぜかこれが岡本太郎の絵に見えました。80年代当時の岡本太郎はしょっちゅうテレビにも出ていたし、コマーシャルで叫んだ「芸術は爆発だ」が流行語になるなど、実に身近な存在だったのです。だから私は岡本太郎の顔を思い浮かべながら何度もこのアルバムを聴きました(より有名なBLP-1519『ハービー・ニコルス・トリオ』に私が初めて接したのは、上京後のことです)。

 エルモ・ホープのレコードも結局は「ジャケット買い」でした。クインテット・セッションのジャケットで、椅子に座るホープの左側に写っている犬が実に魅力的だったのです。当時、私は犬を飼っていました。それもこの写真に親しみを感じた一因でありましょう。ところでこの犬、録音エンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダーの愛犬なのだそうです。2007年にヴァン・ゲルダー・スタジオを訪ねたとき、コントロール・ルームに彼自身が撮影したオカメインコの大きな写真が張られていたのですが、私がそれをキュートだというと俄然目の輝きを増し、とたんに口数多くしゃべってくれたことを思い出します。

 ジャケット目当てで買った2枚のアルバムですが、内容ももちろん大満足でした。ごく自然に体が、なんともいい具合に揺れてくるのです。とはいえこの時の私は、まだ自分の体内が、「ブルーノート」という強烈なジャズ・ウィルスに冒されつつあったということには気づいておりません。